机、椅子、黒板は無論のこと、教材、教具すべてが不備のままにスタートした新制中学は、発足当初は教材研究どころか、毎日の授業に必要な紙やチョークの工面にも苦労するというありさまであった。
「昭和二十二年四月二十二日、紙一枚、チョーク一本もない二中校は、この日誕生したのです。たった四つしかない教室と体操場、この狭い借家住いが四百の生徒の、大事ななつかしい学舎でした。一年生百五十名が体操場の板の上にひざを折って、りんご箱やみかん箱さては長い板を並べて勉強したり、又休み時間には、その場が直ちに運動場になりました」。これは『二中校友会誌』創刊号にある、木村うめ教諭の回顧録の一節である。一方生徒たちは「無試験であこがれの中学生になれる。誇り高き白線の中学生になれる」と大いに喜んだのもつかの間、厳しい現実に直面し、ひどく落胆したことだろう。
時敏小学校に併置した一中の場合は、旧第二高等小学校(女子部)の財産を引継いで使用したので、他校よりは比較的恵まれていたといってよい。その校庭には各校から集めてきた教壇、下駄箱などが雨ざらしに置かれ、「他校の先生方がリヤカーを引いて目ぼしい物を物色に来た」というが、どれも廃棄処分寸前の使用不能な物ばかりであった。
市立商工学校に間借りした二中、朝陽小学校に同居した四中などに比べ、いちばんひどかったのは三中であった。旧歩兵三一連隊兵舎から引揚者住宅となった古兵舎、しかも比較的ましな一画は市立高等女学校が使用しており、その残りが中学校の教室ということで、荒廃ぶりは大変なもの。窓ガラスは無論のこと、窓枠も、教室の戸もない、全くの吹きさらしである。教室に使用した約四間四方の小さな部屋は、中央部にニメートルほどの通路があり、その左右は寝台用に一段床が高くなっており、隅には旧軍の銃架が残っていて、旧陸軍内務班そのままの状態であった。
机も椅子もないこのような教室で、毎日授業をしていかなければならなかったのである。左右の段の上に男女別に分けて座らせ、教師は中央の通路に立って授業をした。教材や教具の不足はすべて教師の創意と工夫で補った。戸の代わりに入口にむしろを下げたり、新聞紙を集め、それを何枚も糊で貼り付け、その上に墨汁を塗って紙の黒板を作った。また、黒く汚れた腰板を、そのまま黒板代わりに使用する教師もいた。