弘前聖愛高等学校の歩み

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昭和二十一年、弘前女学校を改め、校名を「弘前聖愛高等女学校」とした。同時に定員を一〇〇〇人、教員を三〇人とした。
 このころ、一つの事件が起こった。成田校長夫妻の排斥運動である。成田校長は戦時中に青山学院から教頭として赴任し校長となった人であった。排斥の主な理由は、校長が国家主義に加担し、夫人ともどもクリスチャンの職員を弾圧したというものであった。戦争協力の責任をとらされた形で成田校長は退陣させられ、この件は落着した。二十二年には、戦争のために帰国していたミス・バイラーが復帰し、九月になると若い宣教師も次々に赴任してきた。四月には専攻科(英語)が設置された。これは後の短期大学の基となった。また、職員会議では生徒のスカート着用の件が話し合われ、秋からこれが許可されることになった。市内の女学校でセーラー服にスカートが復活したのは、おそらく聖愛が初めてであった。
 昭和二十三年四月、新制高校が発足すると、校名は「弘前聖愛高等学校」と改称された。新制度の施行に伴って、それに見合う校地の拡張と校舎の増築が行われた。聖愛の敷地は繁華街に近く、校地の買収は思うようにはかどらなかったが、昭和四十年までに二千数百坪の拡張ができたのは成功といえよう。それと並行して校舎も整備され、二十四年に図書館が完成、二十九年には老朽化した高谷記念館を解体し、その跡地に家政科館が、そして普通教室も鉄筋四階建ての近代的な校舎に生まれ変わった。また、聖愛では、市内稔町および原ヶ平に七〇〇〇坪の土地を主に運動用地として取得したが、これは将来聖愛がこの地に移転する伏線となった。
昭和二十五年六月、法人名を弘前学院としたことに伴い、校名を弘前学院聖愛高等学校とした。また、この年の五月に、従来の専攻科を発展させた短期大学の設置が認可されたことから、学校法人弘前学園は幼稚園から短大までを含む一大学園となった。