学校給食とPTA

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戦後、弘前市で学校給食が実施されたのは昭和二十二年一月からで、一大、二大、和徳、時敏、城西、朝陽、桔梗野の各国民学校が実施校となった。進駐軍の放出物資に加え、ララ(アジア救済連盟)、ユニセフ等の救済物資が各校に配給され、児童に温食給食が実施されたのである。実施のその年三月、関係学校による「弘前市給食委員会」(委員長金沢安次)が組織され、以後一切の給食問題はこの機関で処理された。
 救援物資の配給は昭和二十五年で打ち切られたが、市民は市とその経費の一部を出し合い、青森市や八戸市が廃止するなか、その後も学校給食を続けた。しかし、二十八年二月の市議会で、食糧事情の変化と逼迫する市の財政を理由として、学校給食の意義に疑問が投ぜられ、その存続が危ぶまれた。弘前市連PTAは、児童の健康教育の立場から学校給食の教育的意義を貫くため存続の意向を示し、給食委員会や学校保健主事会と協力して市当局と折衝を続けた。さらに、存廃の是非をめぐって給食実施校全家庭を対象にした世論調査が実施された結果、存続賛成が七四%に達した。市教育委員会は同年六月に給食存続の方向を決め、市議会も今度は異議なく了承した。
 学校給食は、その後法律ができて制度化され、日本全土に広がっていくが、弘前市の学校給食に対するPTAの尽力には偉大なものがあったのである。

写真147 給食運搬風景(一大小)