終戦直後の食料事情

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昭和二十年八月十五日を、戦前の県内労働運動の指導者で歌人だった松岡辰雄(明治三七-昭和三〇 一九〇四-一九五五)は次のように歌った。
大きな天/地に墜(お)ちたる霹靂(へきれき)か/神国日本/揺りとよもせる/そして 人民の/あらゆる党と/熱情と/力かたむけ/起(た)つべき日は来ぬ

 戦災に焼かれ、喀(かっ)血にせき込みながら日本民主革命の到来を喜んだ。
 しかし、この心の喜びとは裏腹に国民は飢えていた。農業生産力の低下から昭和二十年の米の収穫は三九一九万石で、全国の産米が五〇〇〇万石を割っだのは明治四十三年以来のことだった。本県の十一月現在の収穫予想高は七二万五〇〇〇石で、前年より七〇万五〇〇〇石減の半作であった。衣料の供給量は、昭和十九年には日中戦争開始の昭和十二年の七・四%で、戦災に遭った青森市の浪打、莨町(たばこまち)、橋本、浦町国民学校生徒二四〇四人のうち、冬服のない生徒が一四九一人、仮小屋住み八一四人、電灯のつかない家九五四人、三度の米の御飯を食べている子供はわずか一七一人、三度雑炊(ぞうすい)九一三人たった。青森医学専門学校でも、食糧難で十一月二十三日から翌年の一月三十一日までを冬休みとした。