日本の有産階級は、戦後の混乱に乗じて旧軍や戦争関係の官物・公物の盗奪、臨時軍事費の散蒔(ばらま)きによる国費の浪費・横領、生産サボタージュ、ヤミ売買を行い、インフレが進行した。インフレによる混乱を恐れたGHQは、内閣に金融緊急措置令を出させた。政府は、二十一年二月、国民の預貯金を封鎖して新円切り替えを強行、国民生活を五〇〇円の枠に押し込め、その手持ち現金を吸収して銀行を救済し、金融を中心に復興をねらった。日銀券は一五二億円まで収縮した。
しかし、幣原(しではら)内閣は、戦時経済の平時経済への切り替えを財政インフレによって行う政策をとり、二十一年度予算の三分の一を終戦処理費に、三分の一は銀行や大企業への補助に使い、そのため日銀券は二十二年三月に一一五七億円増発となり、物価は六倍に急騰した。これを不満とする勤労者の抵抗も、GHQによる二・一ゼネスト禁止で抑えられ、インフレは急進した。
発行日銀券の半分はヤミに使われ、生産設備の稼働率は五~一〇%だった。このため、政府は、傾斜生産方式と復興金融金庫で、二十四年三月まで無制限に資金を石炭、肥料、鉄などの大企業に供給した。インフレはさらに進行した。
敗戦時のインフレが本県に及ぼした影響シンボルはりんごである。昭和二十一年七月、青果物統制令により一箱八一円と決められたが、ヤミ値では立木契約で一箱一〇〇〇円となった。また、県内の失業者は六万人と言われ、そのほとんどはヤミ屋となり、彼らを取り締まった統制令違反件数三万一七八七件、人員三万二四六三人だった。しかし、ドッジ・ライン強行により昭和二十四年後半から不況となり、朝鮮戦争の特需も農業県の本県にマイナス影響となり、県民所得の増勢は国民所得を大きく下回り、二十六年には全国比六六・二%と格差が拡大した。