岩木村の成立と飛び地の誕生

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昭和三十年(一九五五)一月十六日、岩木・大浦・駒越・相馬・西目屋を除く中弘一市一一村の合併に関して、中弘地区市村合併促進協議会総会が開催され、新市建設計画が承認された。ここに新弘前市の誕生は確定的となり、関係市村の議会の議決をまち、三月一日付で合併を実施する旨知事に申請することになった。市と各村の議決状況は、欠席者数名を残しながらも全員賛成したのが弘前市のほかに八村あった。しかし、法定協議会からの参加となった新和村は、賛成一一票、反対九票となり、採決結果は僅差だった。千年・豊田の各村も財政的な恩恵がないとの反対意見があった。合併問題に際し財政事情が憂慮の種となっていたことがわかる。だがいずれの市・村も合併賛成の議決となりあとは知事処分をまつのみとなった。

図2 昭和30年ごろの市町村境界と弘前市の新市域

 弘前市長と関係一一ヵ村長の連名で合併処分申請書が、二月十日付で県知事宛に提出された。県では十八日の県議会に提案し、議決をへて知事が処分するだけとなった。ところが突如、岩木・大浦・駒越三村が二月十日付で、三村合併促進協議会の協議により合併を決定してしまった。十二日には三村議会で議決、十五日には県へ合併処分申請書を提出したのである。合併間際に起こった出来事に対し県は大いに困惑した。問題の所在は三村合併により、東目屋村の飛び地が確実となり、将来的にも解決できなくなる可能性があったからである。飛び地となれば行政上不合理な事態を生じ、町村合併の目的にも反することになる。ようやく成立した合併交渉が、将来的に禍根を残すことも危惧 された。
困惑した県は自治庁に指示を仰いだ。自治庁は三村合併を認める以上、新弘前市計画を変更し、飛び地となる東目屋村を除外すべきだと主張した。県はこの見解に従い、弘前市と東目屋村当局に了承を求めたところ、両当局から猛反撃を受けた。飛び地を作るような異常事態を防ぐため、自治庁が東目屋村の除外を主張するのは当然であろう。しかし弘前市にとって東目屋村を合併計画から除外することは難しかった。合併交渉が難航していたさなか、東目屋村当局は弘前市との合併にもっとも協力していた。その東目屋村を除外すれば、不安定な中弘地区合併に大きな不安を残すし、道義的にも裏切り行為となるからである。
 弘前市と東目屋村当局は、東目屋地区が飛び地になる原因をつくった岩木・大浦・駒越三村合併を認めず、三村の弘前市合併を強力に進めるよう県に要求した。これを受けた県は自治庁に対し、法律的解釈よりも現実的に処理することを求めた。その結果、県は二月十六日、青森県町村合併促進審議会専門委員会を緊急に招集して飛び地問題を諮問した。委員会では、中弘合併計画は東目屋村を含めて予定どおり実施し、三村合併も、将来新村を弘前市へ編入させ、飛び地を解消することを条件にして認めるものとする、ただし弘前市への編入をあくまでも拒む場合は分村勧告すべきであると答申した。県はこの答申に基づき、飛び地合併の申請そのままに議会に提案することにした。
 二月十八日の県議会は、弘前市と中弘一一ヵ村の合併処分申請を可決した。二月十五日付で申請された三村合併による新「岩木村」の設置は見送られた。その後、県と三村の間で交渉が行われた結果、「将来村民の意思により弘前市と合併する」という条件が付されたことで、県は三村の意向を受け入れた。二十二日、県は緊急に臨時会を招集し、三村合併の関係議案を提案、可決された。その結果、三月一日付で岩木村が誕生したのである。
 岩木村は昭和三十六年(一九六一)二月一日に町制を施行したが、その間、三十一年九月に、岩木橋を挟んでその対岸に残っていた旧駒越村河東地区(人口六三九人、面積丁一〇平方ご)を住民の要望により弘前市へ編入したほかは、町自体の編入話はその後一種タブー視される形で立ち消えとなった。また、弘前市との合併に当初から反対していた相馬村と西目屋村も、それぞれ一村として残ることになったのである。