桜田市長リコール問題

461 ~ 463 / 965ページ
昭和二十六年(一九五一)四月二十三日、桜田清芽岩淵勉市長の跡を継いで第二〇代の弘前市長に就任した。田市政は戦後改革を断行した岩淵市政の後をうけ、極度の財政難からスタートした。昭和二十四年に断行されたシャウプ勧告による税制改革で全国の市町村は財政難に陥っていた。弘前市の場合、とくに時敏・朝陽両小学校の復興に多額の経費がかかり、弘前大学の誘致に莫大な費用を投じたことが、市の財政を空にした最大要因だった。昭和二十六年度の一般会計では、市債が予算額の約四〇%に達する超赤字財政だったのである。

写真149 第20代市長桜田清芽

 極度の財政難に陥っていた弘前市政を建て直すため、田市長が選んだ方策は行政改革だった。具体的に言えばそれは職員四二人を整理する大量の退職勧告である。これには当然反対の声も上がった。だが市は全国に先駆けて職階制に基づく給与制度を確立し、その導入時期に合わせて職員の大量解雇に踏み切り行政改革を断行した。そのため相当額の経費節約が可能となり、財政上は一定の効果を上げた。むろん退職勧告された職員たちの犠牲の上に成り立った改革である。
 田市長は、就任早々こうした難しい問題に出くわし、大なたを振るわざるを得なかった。その結果、市長に対するリコールが起こった。この問題の発端は、財政難で事業らしい事業のできない田市政に対し、市政の刷新を行えなかったというのが表面的な理由だった。それに水道課の不正事件や、市立女子高校と商業高校の授業料横領事件が拍車をかけた。これに対し田市長は、前任者の編成した予算では田市政の事業を十分に運営できないと反駁し、就任後自ら編成した昭和二十七年度予算の内容を説明してリコール取り消しに動いた。結局は市の政界がリコール反対ということもあり、一ヵ月近く続いたリコール運動は終息した。市長のリコールという一大事が起こり得る背景に、戦後改革のあおりを受けた極度の財政難と市政の混乱があったことはいうまでもないだろう。