昭和二十六年(一九五一)にアメリカのサンフランシスコで、アメリカ・イギリスと日本との間で講和条約(対日平和条約)が締結され、翌二十七年に発効すると、連合国による日本の占領体制が終わった。占領終了後に、短期的な景気循環が繰り返され、数年間の好景気と一時的な不況が続いた。昭和二十七、八年の消費景気による好況、昭和二十九年の不況、同三十年から三十二年にかけての神武景気の好況、同三十二、三年のなべ底不況、同三十三年から三十六年の岩戸景気の好況と続いた。この後も一時的な不況を挟んで、オリンピック景気、いざなぎ景気、価格景気と好況が続いた。こうした景気動向は、一時的な不況を除き、全体的に経済の拡大傾向を帰結し、日本経済は年々成長を続けた。このような経過が高度経済成長である。昭和三十一年の経済白書は「もはや戦後ではない」の言葉を副題に入れ、日本は戦後復興の時代から高度成長の時代へと転換していった。このような高度成長が弘前市の商工業をどのように変えていったのかを見ていこう。
弘前市の産業別人口比率を見れば、昭和三十年(一九五五)には第一次産業が五〇・七%、第二次産業が一〇・九%、第三次産業が三八・四%であった。昭和四十年(一九六五)には、第一次産業が三八・九%、第二次産業が一四・一%、第三次産業が四七・〇%である(弘前市『弘前市における商工業の現状と将来』一九六八年)。この一〇年間に、第一次産業人口が大幅に減少し、一方、第三次産業人口が増加した。この結果、弘前市において、第一次産業と第三次産業の産業別人口比率が逆転した。