弘前商工会の解散

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昭和三十五年(一九六〇)十月に弘前商工会が解散した。同会は、明治四十五年(一九一二)に弘前商業会議所の関係団体として設立され、五三年間、継続した。商工会法の施行により、商工会議所の所在地において、商工会の名称を用いることが禁止されたことである。この法律の成立後は、商工会は、商工会議所が所在しない地域の、商工業者が結成する団体の名称となったのである。解散式は弘前商工会議所において開催された。登嶋権作会長は式辞で次のように発言した(但し、部分)。
弘前商工会が歩み来った五十年間の、数々の業績は枚挙にいとまないのでありますが、その中でも特に指を屈すべきものは、弘前観桜会の開催、物産共進会、五重塔修理、公園西濠ボート経営、二宮尊徳銅像の小庭園、小動物園等の事業でありますが、これ等の事業も今日の盛況をみるまでには、先輩諸賢が血を絞り、肉を削るの苦労を重ねられたもので、過去を振り返る事、只々感激あるのみであります、時移り世が変つた今日に於ては、嘗(か)つて商工会が手がけた事業も、新に観光協会が生れ、文化財保護委員会が生れて、専門的な事業として扱かわれる(〔に脱〕)至り、商工会の手を離れたのでありますが、五十周年を迎えた今年は、更に商工会法が施行され、商工会議所所在地に於ては、商工会の名称が使用を許されない事となつたのであります、かゝる現状に鑑み、後を受け継いで歩み来つた私共会員は、いたづらに時を過し、過去に於ける先輩諸賢の偉業を傷つけるを惧(おそ)れ、意義ある五十周年を以つて、法の定むる所に従い、潔ぎよく本会の解散を決議するに至つたのであります
(『弘前商工会議所会報』四五)

 弘前商工会は、大正年間の一時期に、青森県商工会弘前支部になったが、大正十四年(一九二六)に弘前商工会に戻り、以後同名で継続した。解散に至るまで、弘前商工会は、物産品評会、職工競技会、東北各地物産共進会を主催したが、多くは小学校を会場としたものの、会場の借り上げが次第に困難になり、催し物の開催が難しくなったことも、解散をやむをえないものとした理由の一端である(同前)。