弘前商工会が歩み来った五十年間の、数々の業績は枚挙にいとまないのでありますが、その中でも特に指を屈すべきものは、弘前観桜会の開催、物産共進会、五重塔修理、公園西濠ボート経営、二宮尊徳銅像の小庭園、小動物園等の事業でありますが、これ等の事業も今日の盛況をみるまでには、先輩諸賢が血を絞り、肉を削るの苦労を重ねられたもので、過去を振り返る事、只々感激あるのみであります、時移り世が変つた今日に於ては、嘗(か)つて商工会が手がけた事業も、新に観光協会が生れ、文化財保護委員会が生れて、専門的な事業として扱かわれる(〔に脱〕)至り、商工会の手を離れたのでありますが、五十周年を迎えた今年は、更に商工会法が施行され、商工会議所所在地に於ては、商工会の名称が使用を許されない事となつたのであります、かゝる現状に鑑み、後を受け継いで歩み来つた私共会員は、いたづらに時を過し、過去に於ける先輩諸賢の偉業を傷つけるを惧(おそ)れ、意義ある五十周年を以つて、法の定むる所に従い、潔ぎよく本会の解散を決議するに至つたのであります
(『弘前商工会議所会報』四五)
弘前商工会は、大正年間の一時期に、青森県商工会弘前支部になったが、大正十四年(一九二六)に弘前商工会に戻り、以後同名で継続した。解散に至るまで、弘前商工会は、物産品評会、職工競技会、東北各地物産共進会を主催したが、多くは小学校を会場としたものの、会場の借り上げが次第に困難になり、催し物の開催が難しくなったことも、解散をやむをえないものとした理由の一端である(同前)。