昭和四十五年(一九七〇)には、南津軽郡大鰐町と弘前市中心部を結ぶ弘前電鉄の経営不振により、弘南鉄道株式会社にその営業権が譲渡されることになった(同前No.五一〇)。弘前電鉄は、昭和二十四年七月に、当時の岩淵勉市長の肝いりで設立されたが、開通当初から営業成績が思わしくなく、バス路線が競合していることもあって赤字が続いていた。この間、地元弘前市出身で当時三菱電機社長であった高杉晋一に働きかけ、三菱の資金約四億六〇〇〇万円を導入したが、三、四年前から三菱電機は弘前電鉄の経営から手を引こうと計画を進め、弘南鉄道に経営の肩代わりを折衝していたのであった。
この時期は全国的に国鉄の赤字ローカル線の廃止または第三セクター方式への移行が行われ、昭和四十五年には、大正元年八月から営業してきた国鉄黒石線の廃止反対の意見書が市議会において採択された(同前No.五一二)。しかし、同線は、昭和五十九年に弘南鉄道株式会社の経営に委ねられたが、利用者の減少に伴って、平成十年三月三十一日に廃止され、八六年の歴史に幕が下ろされた。
昭和四十六年十月一日から、奥羽本線の青森-秋田間が電化され、その前日には青森機関区のSL、D51・一号機のサヨナラ運転が青森-弘前間で行われ、その勇姿を消した。