「日本一の不潔な町」(新聞の投書から)

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昭和二十九年(一九五四)六月七日付の『陸奥新報』に、小さな投書が寄せられた。そこには「市中を流れる河川の塵芥、汚物にはこれまた日本一の不潔な町としての資質十分であると感じた、水面附近は臭気紛々たり」と書かれていた。これは市内を流れる土淵川の汚さについての投書記事である。これに対して翌日の『陸奥新報』は、なぜあんなに汚くなるのかと嘆き、市当局にも対応策を求めている。それほど長くもない土淵川が、市内に入ってからは、どの街路の橋から見ても汚物と塵芥にまみれていた。そしてその異常な汚さに対し、何度も投書が寄せられたというのである。

写真239 昭和30年ごろの土淵川

 町の中心部も塵芥と下水や汚物で汚れ、悪臭を放つなど、今日では考えられないような汚れ方だった。ゴミの塵芥車についても「ゴミをいっぱい積んだトラックが紙クズやゴミをとばしながら風を切って走ってゆく、まったく嫌なことです」というのである。これに関して同紙の社説は、塵芥車を増備しゴミをまとめ運搬する回数が増えても、それらを扱う人々の訓練と自覚がなされていなければ何も意味がないと批判している。
 もちろんこの小さな投書が、当時の弘前市の実態をすべて語っているわけではない。投書である以上、たぶんに誇張があり、その投書を材料として『陸奥新報』が社説を書く以上、そこには政治的社会的な批判や、市民へ警鐘を鳴らす内容が盛り込まれるのは当然であろう。
 しかし市内、とくに中心部の非衛生状態に対する苦情が多く寄せられ、新聞にも多数投書がもたらされるほど、弘前市中心部の衛生状態がひどかったことは読みとれる。ただ、土淵川自体も、清涼な上流域は言うに及ばず、その全部が全部投書に寄せられるような汚染された川ではなかった。それが見るに耐えない汚濁した川となるのは、市街地に入ってからである。つまり下水の垂れ流しやゴミの投棄など、明らかな都市公害の影響を受けていたのである。
 こうした状態に弘前市当局が対策を練らなかったわけではもちろんない。市当局は衛生対策の必要性を痛感しており、対応策に追われていた。ここではその概要を述べるとともに、弘前市がどのようにして衛生都市としての機能を持ち合わせていったかを紹介していきたい。