第八師団を失った弘前市は弘前大学を設立し、「学都」弘前をめざしてきた。大学設置の二年後、昭和二十六年(一九五一)に医学部医学科が設立された。これ以後、市の医学界は弘前大学を中心に動くことになり、青森県の医学界をも左右することになる。
弘大医学部が弘前市の保健衛生対策に一役買ったのは、市の教育委員会が主体となって始めた学校保健活動の強化充実事業であった。昭和二十九年に、小・中・高校の衛生担当者をはじめ、各婦人会、保健所、医師会、各学校の父兄代表などが参集して、弘前市全域を対象とする学校保健委員会が結成された。事業には医学部も積極的に参加し、他の学校関係者の入会を牽引する役割を果たしている。当時の『陸奥新報』でも「本県はもちろん他県にもほとんど見られない学校を中心とする地域社会の広範な保健衛生活動を強力に展開する」事業であり、「学都弘前にふさわしい広範な学校保健活動を展開すること」が目的だと報じている。
「学都」弘前は医学部の設置により、医学都市弘前をもめざしていた。医学部に入学する学生は年々増え、研究分野でも北日本に多い脳卒中の研究をはじめ、優れた業績を見せた。しかし医学部内に問題がなかったわけではない。市町村立の病院が、その地域に存在する医大との関係が強いのは、全国の自治体に共通しているだろうが、弘前市の場合、弘大医学部との関係はとくに密接だった。弘大医学部が市内の病院の動向を相当左右するだけの影響力をもっていたからである。
ところが弘大医学部で研究を続け、将来的に弘前市内の病院に長く勤務する医者が少ないことが問題となった。優秀な学生が大学に残って研究を続け、その後に大学が存在する地域の医者となり、その地域に貢献することが望ましい。しかし弘大医学部に地元出身者が少ないことから、彼らが市や県内での医療に従事する動機に乏しいのは無理からぬことだった。医学生も学者である以上、優れた医療設備と施設のなかで研究を進めたいのは当然である。けれども、弘前大学の医学設備が全国の水準より下回っていたのは、残念ながら認めざるを得ない。こうした環境は現在も続いている。優れた医者をめざし、向学心あふれる医学生を弘前大学から手放さないような工夫が必要とされている。