「石坂君、ぼくに君のキンタマを見せ給え!」と云い出した。どぎもをぬかれた私は「見せられません!」と強く反撥した。すると善蔵は眉をいっそう大げさにしかめて、「君、人にキンタマもみせられないで、作家になれると思ってるのかね」ときめつけた上、煙草盆にペッと唾を吐いた。私を軽蔑する仕草である。(中略)食膳を運ぶのは境内のお茶屋の素朴な感じのする娘さんだったが、この人は善蔵の恋人でもあった。夜中の十二時ごろ、少し間隔を置いて並べてしいた寝床に私が入ると、善蔵は恋人を自分の寝床に引きこんで、無理に営みを強いるのだった。目的は私をいじめる(あるいはしごく)ことにあるのだ。-ああ、文学とはかくも深刻な体験なしには生み出せないものなのか。ひ弱い文学青年だった私は、恐れ、おののき、とまどい、いましばらくは師事しても、この無法無残な生活に耽(たん)溺する先輩の影響から、いつか時機をみて遁走しなければならないと、初対面の日から心の片隅で決意したものだった。
「葛西善蔵との初対面」(『ふるさとの唄』所収 昭和四十年 講談社刊)の一節であるが、それにしても凄(すさ)まじい、というほかない。しかし、洋次郎が「神経を、飴のように両手の指先で弄んで、ひっぱったり、丸めたりするような困らせ方」(『石坂洋次郎文庫20 われら津軽衆なり』昭和四十二年 新潮社刊)を善蔵にいくらされても、善蔵が好きな人であることに変わりはない、と言っている。「葛西さんの人間が好きだということは同時にその作品も好きだということである」(資料近・現代1No.七二七)。
確かに、洋次郎の初期の作品は善蔵風の〈私小説〉的傾向が強いことは、これもつとに指摘されていることだが、例えば文芸評論家・平松幹夫によれば、弘前高等女学校に奉職する前の五月に稿了したという、処女作「海をみに行く」も善蔵の影響が強い作品に仕上がっている。
それだけではない。「久し振りで津軽の空や岩木山をみたら、ここでならいい作が書けるかも知れないという気がするんだ」と志は強かったものの、善蔵は結局この帰省では一行も書けなかった。「葛西=石坂代作の記」で洋次郎はいう。
ニッチもサッチもいかなくなった葛西は、「おい、石坂君。わしはここでは作品が書けない。東京に帰る旅費が欲しい。書きためてる作品があるなら、僕の名前でそれを発表させてもらい、旅費を稼がせて欲しい」
(前掲『石坂洋次郎文庫20』)
その作品が「老婆」である。その代作は見破られることはなかった。それどころか逆に「中村武羅夫氏の新聞の文芸時評で『最近の葛西の作品はずうっと低調だったが、この作品は、みちがえるほどひきしまった好短編である』と賞められ」(同前)ることになる。つまり、それほど洋次郎の作風は善蔵に酷似していたのである。
さて、善蔵は九月下旬、代作させて得た旅費を手にしてようやく帰京した。この二ヵ月間の「地獄絵に似た、善と悪とが泥のように溶解した原始生活」もやっと終わる。むろん、当時市内でも一流の「斎吉旅館」の宿泊費、そして流連していた遊郭「盛観楼」の遊興費など、善蔵の後始末に追われたであろうことも想像に難くない。
翌十五年、弘前高等女学校は図書部を創設する。洋次郎は初代の図書部長に就く。教え子たちは洋次郎を「洋さん」、奥さんを「うらさん」と呼んで石坂夫妻に親愛の情を示したと語る。また、同校の『八十年史-青森県立弘前中央高等学校』(昭和五十五年)の「思い出に残る教員」の項にも「国語と英語を担当した。とてもやさしく、評価の点数も甘く、『洋さん、洋さん』と生徒達から親しまれた。(中略)和服に袴をつけ、首に白いものを巻き、なよなよとお辞儀をすると『いいなあ』と生徒達は憧れの気持を抱いたのである。文筆の人らしい授業であり、ムード的な先生であったという」と記されている。