今官一は、四肢だけではなく、言葉も失ってしまった。それは作家生命を断たれることをも意味する。だが、ここで〈奇跡〉が起こる。公恵夫人がある雑誌を読んでいたとき、言葉を話せない人に第一母国語を聞かせたら治ったという記事を目にした。官一の第一母国語は「津軽弁」である。公恵夫人の決断は速かった。昭和五十五年一月、五〇年に及ぶ東京生活を終え、官一は故郷へ帰ってきた。ふるさとの人たちは温かく官一を迎えた。「現代人」の同人たち、津軽書房の高橋彰一(たかはししょういち)社主もそうだった。
公恵夫人の判断は正しかった。官一が奇跡的に恢(かい)復したのである。車椅子の生活は余儀なくされたが、言葉を話すことができるようになったのである。
今官一を往診・健康管理した主治医の小野淳信は回想している。
むしろ公恵夫人の献身的な介護が先生の病態を和らげ、悪化を食い止めていることに感動し、夫婦愛の美しさに心うたれた。(中略)この間、全集の校正、そして「想い出す人々」の記憶に基づく口述など、作家としての生きざまの逞(たくま)しさを見せられた。
言葉を得た官一は、早速作家活動を再開する。一切資料を見ないで、すべて官一の記憶による口述を公恵夫人が書写する形で、「想い出す人々」を「東奥日報」に七〇回連載する。当時の工藤英寿文化部長のサポートもあった。さらに、詩人の葛西美枝子(かさいみえこ)主宰の詩誌「波」に夫婦で参加するまでに恢復したのである。半年の生命の保ほかない。
昭和五十八年二月二十日、「想い出す人々」の最終回の口述を終え、原稿を書き終えた直後発熱し、入院。三月一日、流行性感冒のため逝去。明治四十二年十二月八日に生まれた官一は、享年七十三歳で静かにその生涯を閉じた。父・官吾、母・さだが眠る生家の蘭庭院に埋葬された。
今官一の文学は知的で詩情にあふれていて、そして私生活においても一貫した美学を追い求めた。すなわち、ダンディズムである。長部日出雄は「今官一のダンディズムの底に秘められていたのは」「無限の憧憬であり、不屈の意志であり、稜稜たる反骨であった」と評す。