ルポライターの第一人者

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鎌田慧は昭和十三年(一九三八)に弘前市に生まれた。弘前高等学校を経て、早稲田大学へ。卒業後は、鉄鋼新聞社、雑誌編集部を経験した後、フリーのルポライターとなる。昭和四十五年、『隠された公害』を発表し、現在までの刊行点数は、単行本に限っても、実に一二〇冊を超えている。平成二年(一九九〇)に『反骨 鈴木東民の生涯』で第九回新田次郎文学賞受賞。三年には『六ヶ所村の記録』で毎日出版文化賞を受賞している。鎌田はルポライターの第一人者として、全国各地だけではなく、海外まで取材のため足を運んでいる。権力的なもの、非人間的なもの、理不尽なものに激しい怒りを覚え、毅然と対峙してきたルポライターである。
 鎌田の膨大な著作群のなかに、葛西善蔵の生涯を描いた作品がある。『椎の若葉に光あれ-葛西善蔵の生涯-』(平成六年 講談社刊)である。なぜ、葛西善蔵なのか。鎌田は次のように告白している。
五〇歳をすぎて、偽善とまでいう必要がないとはいえ、なにか自分とはちがう自分になっているようで、落ち着かなくなっている。葛西の愚直なまでの率直な強さが、ようやく理解できるようになったのであろう。身を捨てた彼は、自堕落のようにみえるが、凝縮して輝やいている。

 すなわち、鎌田は「外にばかりむけていた眼を、自分にむけなければならないのを感じはじめていた」のである。つまり、自己確認のために善蔵を標的にしたということである。
 鎌田は善蔵の身勝手さもエゴイズムも認めたうえで、その生涯を、つまり善蔵がいかに芸術を実生活に優先させたかを、多様な資料と証言を駆使しながら実証していく。そのプロセスで「僕は小さな作家であっても正直に歩んで作家として純粋に生きて行きたい」という善蔵の揺るぎない信念を発見するのである。「葛西の愚直なまでの率直な強さが、ようやく理解できるようになった」ということである。
 それにしても、鎌田の郷土の先人に向ける眼差しは優しい。陸羯南の項でも触れたが、後輩が先輩を高く評価するだけではなく、そこから生きる指針を獲得しているのである。
 さらに、鎌田は太宰治についても書いている。『津軽・斜陽の家-太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒-』(平成十二年 祥伝社刊)である。平成十五年に同書は講談社文庫から再刊された。解説は三浦雅士が担当している。結びの一節を紹介する。
痛烈な太宰治論である。鎌田慧は、津島文治太宰治の長兄-引用者注)という個性に強い光を当てることによって、太宰治をも強い光で反射的に浮かび上がらせている。手法が冴(さ)えた一瞬である。

 ここにも〈津軽の文学者の関係性〉を看て取ることが、確かにできる。しかも、その絆は、やはり強い。

写真262 鎌田慧