井沼清七は明治四十年(一九〇七)に、北津軽郡中里町(現中泊町)に生まれた。弘前中学からスプリンターとして頭角を現し、日本を代表する短距離選手になった。弘前高等学校が創立百十年を記念した刊行した『鏡ケ丘の群像』(一九九三年)の井沼清七の項によれば、おおむね次のように要約できよう。
井沼は小学校のときから運動会では常に一着。しかもかなりの差をつけてのトップだった。念願の弘前中学校の陸上部に入部する。当時としては高価なスパイク・シューズを手にしてからタイムがよくなったという。
県内では彼の前を走る選手はいなかった。そして、自らの実力を試すため、早稲田大学に入学。早稲田には、織田幹雄、南部忠平など錚々(そうそう)たるメンバーがいた。そして、昭和三年(一九二八)、第九回夏季オリンピック・アムステルダム大会の四百メートルリレー選手として選ばれたのである。そのときの様子を井沼はこう記している。
私の出場した四百米リレーは八月四日雨の中で行はれた。相手は世界記録を持つアメリカとスヰス、ハンガリー、トルコ等で日本軍は井沼、大澤、南部、相澤のメンバーで対戦した。(中略)チーム急造りで、オーダーなどもやつと決定したばかりだったので全体にバトンの接合悪く、大澤南部両君の必死の奮戦にも、相澤君に渡つた時は最早如何ともする事が出来ない状態にあつた。アメリカ(四十一秒二)ハンガリー、スヰス、日本の順となりハンガリーは反則除名された。
(同前No.六九二)
オリンピックでは不本意な成績に終わったが、その年に開催された第九回極東オリンピックの百メートルで優勝するなど、めざましい活躍を続けた。特に、昭和六年、弘前市で行われた「スノゴ三巴(みつどもえ)戦」(注、「スノゴ」とは、スが青中のスパルタ、ノが青森師範のノーマル、ゴが弘中のゴルゴンからとったもので、各校のOBと在校生からなる陸上競技クラブの対抗戦のこと)の百メートルで記録した一〇秒九は青森県内での最高記録として、昭和五十年まで破られることはなかった。
写真310 井沼清七の所属したゴルゴンクラブ(大正13年)