用の美と津軽民芸

957 ~ 958 / 965ページ
民芸運動で昭和四十五年県文化賞を受賞した相馬貞三(そうまていぞう)は、昭和二年に柳宗悦(やなぎむねよし)を知ってから、平成元年八十歳で死去するまでの六二年間、民芸運動の発展に尽くした。豪農の相馬家は館野越北畠氏出身の祖母が嫁入りに『資治通鑑』二九四巻を持ってきた。唐竹(現平賀町)の父貞一(ていいち)は青森りんご発展の大恩人で、そのため資産を蕩尽(とうじん)、文化学院(東京神田に大正十年創立)で西村伊作、与謝野晶子、川端康成、小林秀雄らの教えを受けながら、帰郷後は父の事業の処理に専念した。
 相馬貞三の本質は人だと彼を知る人はいう。彼は陶淵明を好んだ。風は河井寛次郎に似る。民芸精神の探求は柳宗悦の影響が大きい。昭和二十四年、柳から『美の法門』が贈られ、内容に驚嘆、一生それの研鑚(けんさん)に努めた。晩年、山道町のつがる工芸店で「柳宗悦を学ぶ会」を続けたが、その研究ノートに「衣珠ノート」と名づけた。法華経の〝衣裏宝珠″からとった。死の一週間前に集『朝雲』のあとがきに「俯仰四恩の重きに思いを馳せる」と書いてペンを擱(お)いた。仏典の一句である。
 民芸運動を広めたい柳は、貞三が文化学院を卒業した昭和八年ごろから青森県支部の立ち上げを望んでいたが、昭和十七年八月十九日、ついに日本民芸協会初の地方支部青森支部が誕生、棟方志功(むなかたしこう)が相馬宅「帰島山房」で描いた倭絵(やまとえ)『東湧西没韻』を土手町のみゆき楼の会場に掲げた。柳、河井、それに濱田庄司(はまだしょうじ)らも出席した。戦争末期、柳は唐竹の相馬宅へ疎開する予定だった。
 貞三の功績は県内の悪戸焼など民芸品の掘り起こし、紹介のほか、コギン、刺子(さしこ)、菱刺(ひしざし)、凧絵(たこえ)、アケビ蔓(づる)や根曲がり竹細工、伊達(だて)げら、ネプタ絵、玩具など、津軽の庶民が生んだ「用の美」を再評価し、作り手の育成と津軽ガラス器の誕生に協力、『みちのく民芸』を発行して民芸運動を精神文化運動に高めたことである。イギリスの陶芸家バーナード・リーチとの親交で、津軽の民芸品は欧米にも紹介された。

写真314 バーナード・リーチと相馬貞三