33シーズン目
【ルール】 「スクラムを組む人以外は両足[従来は片足]ともスクラムの後方に位置しなければならない」と改正された。【代表】 カナダ代表と2テストマッチ 日本代表はカナダを迎えてテストマッチ[昭和51年に日本協会が認定、以下同じ]を2試合戦い9−8、38−5といずれも勝利を収めた。監督は香山蕃、主将は馬場武生、足立卓夫がそれぞれ務めた。
【大学】 明大初の全国制覇 明大は関東大学初優勝の余勢を駆って、第5回東西王座決定戦に関西優勝の京大を54−11という大差で退けて、初めての全国制覇を達成した。/関東は明大、関西は京大が優勝 明大が第4回関東大学対抗戦に全勝で初優勝を遂げた。第5回関西大学対抗戦は京大が2戦全勝で2年ぶり4回目の優勝を遂げた。/慶応蹴球部が30周年記念祭を挙行 4月19日に武蔵新田グラウンド[明治36年から使用していた三田綱町グラウンドから昭和2年に移った]において行われた。慶応の創部は1989年だが、初めてYCACと対外試合を行った1901年から数えて30年のこの年に行われた。/第1回関東5大学OBリーグ戦始まる OBリーグ戦が始まりラグビー人気が盛んになってきた。慶大、早大、明大、立大、学士OBの5チームで行われ、第1回は慶大OBが4戦全勝で優勝した。この大会は昭和15年まで続いたが、戦雲の高まりとともに自然消滅した。
【地域】 第5回東西対抗で関東が32−22で関西を破り5連勝を遂げた。
【その他】 信州菅平でラグビーの夏合宿始まる 「菅平合宿に先鞭を付けたのは法大ラグビー部であった。菅平電鉄専務の柳沢健太郎氏が大学同期だった法大の高橋一太郎先生に『菅平にホテルを建設したが、冬場以外に利用する方法はないか』と話があった。合宿地の制定に苦労していた部員は早速この年の8月中旬部長以下40名がこの地を踏んだ」(『法大ラグビー史』P55要約)。翌年には早大も菅平で合宿を行い、やがて現在のように菅平がラグビーのメッカと呼ばれるようになる。/中学は京城師範、高専は明大予科が優勝 第14回全国中学大会は京城師範が同志社中を30−5で破り2年連続2回目の優勝、第7回高専大会では明大予科が17−0で関西学院を破って初優勝した。
【国際】 カナダ代表第1回来日 前年度に日本代表がカナダへ遠征した答礼として、カナダ代表が来日し、東京と大阪で7試合を行い、日本ラグビーの技術向上と普及に貢献して、5勝2敗(テストマッチは日本の2勝)で帰国した。代表以外には早大、同大、京大、明大、関東代表が挑んだがいずれも退けられた。/4月6~14日に京大が朝鮮遠征(2勝1敗)をそれぞれ実施した。/5月31日に仏艦ワルデック・ルーソー号が来日し全三菱(長崎)と対戦したが4−18で敗れた。/昭和7年3月30日から明大が朝鮮遠征(3勝)を行った。