59シーズン目
【協会】 専務理事に杉原雄吉が就任 杉原雄吉が専務理事に就任した。/日本ラグビー協会が体協に復帰 6月16日に日本ラグビー協会が日本体育協会に復帰することを決め、6月19日体協理事会、6月22日の体協議員会で承認された。/関東大学各校、スケジュール折衷案を受け入れ 5月2日に関東協会理事会がスケジュール問題を調整し、対抗戦とリーグ戦の折衷案A、Bブロック制(事実上の1・2部制)を提示し各校がこれを受け入れた。/関東協会理事会総辞職 「5月19日、関東協会定例評議員会において、スケジュール問題解決を機会に、協会の運営をも刷新するため理事は総辞職し若手と交代した」と『片岡メモ』に残されている。『機関誌』には記載がないが、時の関東協会理事長片岡春樹氏のメモだけに重みがある。日本協会『協会寄付行為』昭和33年度役員名簿によれば、関東協会の会長は空席、理事長品田通世、書記長和田政雄以下全員が新任者になっている。【ルール】 セットスクラム[現在のスクラム]とルーズスクラム[現在のラック]が分けて定義された。ゲームの展開をスピーディにするため「タックル後のボールを手で扱ってよい」と規定され、FKからチョン蹴りでプレーを再開することができるようになった。モールがNZで実験的に採用された。
【代表】 NZ代表コルツ(U23)に日本代表3テスト完敗 日本代表はNZ代表を迎え撃っため、監督西野網三、コーチ阪口正二、和田政雄、新島清、主将梅井良治以下29名のメンバーを編成した。日本代表スコッドの誕生であった。私は一選手で経緯は知らないが、いままでの編成ではチームとして機能しないという反省が生かされたのだと思う。しかしNZ代表には3試合で2トライをあげるのが精一杯で、いずれも大差で敗れた。
【大学】 全国制覇該当チームなし 第29回東西王座決定戦は慶大と関西学大の対戦がなく全国制覇に該当するチームがなかった。/関東は慶大、関西は関西学大、九州は長崎大が優勝 第28回関東大学対抗戦Aブロック(1部)では慶大が3勝1分1敗で2年ぶり5回目の優勝を果たした。この年から全勝でなくても優勝と認めるようになった。第29回関西大学対抗戦は関西学大が5戦全勝で3年ぶり7回目の優勝を遂げた。第7回九州大会は長崎大が29−3で福岡大に雪辱し初優勝を果たした。
【社会人】 近鉄が連覇 第10回社会人大会は近鉄が12−3で京都市役所を破って2年連続3回目の優勝を遂げた。
【地域】 第11回の三地域対抗は関東が関西、九州を下して3回目の優勝を果たした。/第12回学生東西対抗は27−8で関東が勝って10連勝。/第8回の九州朝日招待試合には慶大が出場したが、5−23で九州代表に敗れた。
【その他】 大学大会は日体大、高校は保善高が初優勝 第8回の全国大学大会は日体大が45−0で松山商大に勝って初優勝を遂げた。第37回高校大会は保善高と日大二高の東京決戦となり、保善高が14−3で勝って宿願の初優勝を遂げた。/国体は成年福岡、少年Aは秋田、Bは東京が優勝 日本協会が体協に復帰したことに伴い、第12回静岡国体では成年の部も復活、福岡県(全福岡)が千葉県(全千葉)を32−0で破り5連覇[開催されなかった前回を除く]を達成した。少年Aは秋田県(秋田工)が熊本県(熊本工)を16−0で破って連覇、少年Bでは東京都(城北高)が福岡県(修猷館高)を9−3で破ってこれまた連覇を達成した。
【国際】 NZ代表オールブラックスコルツ来日 NZ協会がオールブラックス[実際は23歳以下のオールブラックス]の名称を使ってよいと認めたことで、報道各社が大フィーバーしラグビー界空前の取材ラッシュとなった。私は第1戦の全早大戦と全日本学生代表、日本代表2試合の4試合に出場したが、第1戦の全早大戦には皇太子殿下(現天皇陛下)、岸信介首相が観戦され、NHKで実況中継された。この試合は後年16ミリフィルムからビデオに編集され、現存する日本最古の映像として残されている。NZは日本勢をまったく寄せつけず、9戦全勝で帰国した。日本代表以外の対戦は全早大12−33、関東大学連合3−22、関西代表6−39、日本学生代表10−22、全明大3−55、全慶大3−33であった。NZコルツの来日が国内にラグビーを広めた功績は大きい。