5 平成3-12年(1991-2000)度

 
第2回RWCでジンバブエに初の1勝
 1991-2000年代は第2回RWCで始まった。スコットランドアイルランドに負けて予選敗退となったが、ジンバブエに勝ってRWC初の勝利を収めている。
 宿沢監督の退任を受けて、日本協会は平成4年度(2002)に小藪修を新監督に任命した。小藪は強化委員会の委員でジュニアの指導で実績を示していた。薫田真広を主将に、来日のフィジールーマニアとのテストマッチで勝利を収めるなど成果を見せ、RWCの予選を兼ねたマレーシアのアジア大会で韓国を26−11で下して出場権を得た。平成7年(1995)5月、第3回南アRWCでは、ウエールズアイルランドに敗れ、予選最終戦でNZに17−145で壊滅して評価を落とした。NZに106点取られた経験をもつ私としては、同情の念を禁じ得ないが、RWCという世界中が注目している大会での大敗は弁解の余地もなかった。
 この頃から世界のラグビーはRWC中心に回るようになり、プロ化がますます進んでいく。アマチュアの中では可能な限りの強化策を講じている日本だが、強豪国が競い合ってプロ化していくなかで取り残されていく感が強くなった。
 平成8年(1996)度に、日本協会は白井善三郎専務理事が中心になり、日本代表の強化を推進するため、アメリカカナダ香港とホーム&アウエーで試合をするパシフィック・リム選手権の実施に踏み切った。この試合は参加国や形式が変わりながら今日まで続いているが、日本代表の強化に大変力になっていると私は評価している。同レベルのチームと毎年戦うことで、日本代表の強化の進捗が図れるからだ。山本巌が日本代表監督に就任、主将に元木由記雄が指名された。第1回のパシフィック・リム選手権はアメリカ香港に1勝1敗、カナダに2敗の2勝4敗に終わった。
 山本監督は『機関誌』Vol.46-2号に「パシフィック・リム、日本代表の反省と今後について」と詳細に報告している。文末に今後の課題として「①ラックがよくなっているのでオプションを増やす。②ディフェンス、相手FWのサイドアタックをどう止めるのか。③情報収集の仕方・分析の強化」を挙げている。
 平成9年(1997)度には第4回RWCへ向けて強化のステップを早めるため、日本協会は待望論の強かった平尾誠二を代表監督に据えた。主将は引き続き元木由記雄。この年のパシフィック・リムは1勝5敗に終わり、強化の進展は見られなかった。
 平成10年(1998)度、平尾監督はマコーミックを主将に指名した。第3回パシフィック・リムは2勝4敗だったが、9月に来日したアルゼンチンに勝って気勢を挙げた。10月には予選を兼ねたシンガポールのアジア大会で優勝し、RWC連続4回の出場権を得た。
 カナダアメリカトンガフィジーサモアと、より強豪が参加した第4回パシフィック・リムに4勝1敗(1敗はフィジー)で優勝、さらに壮行試合のスペインにも勝ってRWCに大きな期待をもたせた。しかし平成11年(1999)10月、第4回ウエールズRWCでは、残念ながらウエールズサモアアルゼンチンに敗れて期待に応えられなかった。
 第4回RWC終了後、日本協会は初めてRWCをまたいで平尾監督を留任させ、継続強化の路線をスタートさせた。
 平成12年(2000)度、メンバー一新を図った平尾監督は、第5回パシフィック・リムに5戦全敗、うち2試合はミスマッチの大差で敗れた。ラグビー強国では、メンバーの熟練度を計るとき、メンバーのキャップ数を参考にする。第4回RWCでアイルランド代表との試合メンバーのキャップ数が311であったのに、新スタートとなった第5回パシフィック・リム第1戦フィジー戦は157のキャップ数だった[『キャップ試合一覧表』参照]。11月のフランスアイルランド遠征でこれが裏目に出た。とくにアイルランドU25代表に13−83、アイルランド代表に9−78と、ミスマッチを演じ国際的な批判を浴びてしまった。ここで平尾監督は交代し、向井昭吾監督が指揮をとることになった。