長野県立歴史館 信濃史料
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後白河
久寿二年八月一六日
1155
源義仲の父義賢、武蔵大倉館に於て、源義平に討たる、尋で、義仲、信濃木曽に遁れて、中原兼遠に養育せらる、
1
後白河
久寿二年一〇月一三日
1155
是より先、源頼賢、義賢の仇を報ぜんがため、信濃に逃れ、院領の庄園を侵す、是日、源義朝、頼賢追討の院宣を承けて、信濃に下向す、
3
後白河
保元元年七月一〇日
1156
崇徳上皇、兵を白河殿に集む、信濃の人村上為国・同基国父子等、之に参ず、
5
後白河
保元元年七月一一日
1156
平清盛・源義朝等、白河殿を襲ふ、片桐景重等信濃の人、多く之に従ふ
5
後白河
保元元年九月八日
1156
願西、伊那郡伊賀良庄光明寺の如法経を書写す
8
後白河
保元一年一月二四日
1156
藤原顕賢、信濃守に任ぜらる、
9
後白河
保元二年二月二五日
1157
平正弘の所領信濃麻続御厨並びに高田郷以下公卿領三箇郷等を没官して、後院領となす、
10
後白河
保元二年九月二日
1157
定西、経筒を埴科郡坂城郷に埋納す、
12
二条
保元三年一一月二六日
1158
藤原高尹、信濃守に任ぜらる、
13
二条
保元三年一二月三日
1158
是より先、更級郡小谷庄等の石清水八幡宮寺及び極楽寺領、多く領家・預所・下司・公文等に掠略せらる、是日、官宣旨を下して、悉く之を停止せしむ、
13
二条
平治元年一二月一〇日
1159
藤原通憲の子信濃守是憲、官を解かれ、源重成、信濃守に任ぜらる、二十二日、是憲等流さる、
17
二条
平治元年一二月二六日
1159
平清盛等、兵を大内に遣はして、藤原信頼・源義朝等を討ち、清盛の子重盛、待賢門の固めを破らんとす、信濃の人片桐景重等、義朝の子義平に属して之を防ぐ
18
二条
永暦元年一月二一日
1160
藤原伊輔、信濃守に任ぜらる、
20
二条
永暦元年一月二七日
1160
藤原親経、信濃権守に任ぜらる、
21
二条
永暦元年一〇月二二日
1160
関白近衛基実、信濃大宮庄の事につきて、御教書を下す、
22
二条
応保二年六月二三日
1162
是より先、修理大夫源資賢、天皇を呪咀するの罪に依りて解官せらる、是日、信濃に流さる、
23
二条
長寛元年一二月三〇日
1163
是より先、太政大臣藤原伊通、信濃国司の重任のことを談ず、是日、藤原伊輔、信濃守に重任せらる、
26
二条
長寛二年六月二七日
1164
源資賢、宥されて信濃より召還さる、
28
二条
長寛二年
1164
信濃に関する歌謡、
30
六条
仁安三年一月一一日
1168
藤原隆雅、信濃守に任ぜらる、
31
高倉
嘉応元年六月一六日
1169
更級郡布施戸部に大雹降る、
33
高倉
嘉応二年二月七日
1170
藤原助弘、高井郡中野郷西条下司職に補せらる、
33
高倉
承安二年閏一二月七日
1172
藤原実教、信濃守に任ぜらる、
34
高倉
承安四年一月二一日
1174
大江泰友、信濃権守に任ぜらる、
35
高倉
承安四年八月一六日
1174
東寺最勝光院別当、同院領小縣郡塩田庄年貢の事を後白河上皇に奏す、依りて、上皇、同庄の寄文を徴せらる、
36
高倉
安元元年八月二四日
1175
是より先、鴨社祢宜祐季、同社領のことに就きて、延暦寺の僧徒と争う、是日、祐季を解却し、延暦寺釈迦堂の僧弁円を還俗せしめ、之を信濃に流す、
37
高倉
安元二年一月三〇日
1176
平康清、信濃介に任ぜらる、
40
高倉
治承二年一月二七日
1178
大中臣盛実、信濃権守に任ぜらる、
40
高倉
治承二年
1178
信濃の人高野山沙門西念寂す、
41
高倉
治承三年一月一九日
1179
藤井国兼、信濃大掾に、藤原康義、同掾に任ぜらる、
42
高倉
治承三年三月二四日
1179
水内郡善光寺火く、
43
高倉
治承三年八月二六日
1179
僧某、水内郡戸隠社の大般若経を書写す、
44
高倉
治承三年一一月二八日
1179
仁科盛家、安曇郡藤尾郷の覚薗寺に千手観音像を造立し、是日、開眼供養を行ふ、
44
安徳
治承四年一月二八日
1180
藤原俊康、信濃小掾に任ぜらる、
46
安徳
治承四年四月九日
1180
源頼政、以仁王に請ひ、平家追討の令旨を得て、之を信濃等の諸国の源氏に伝ふ、
47
安徳
治承四年四月二七日
1180
源行家、伊豆に至りて、以仁王の令旨を頼朝に伝へ、更に之を甲斐・信濃の源氏に伝へんとして、伊豆を発す、
50
安徳
治承四年四月二六日
1180
平知盛等、源頼政を攻めて山城宇治川に戦ふ、信濃の人笠原頼直等、平氏の軍の先陣に属す、
52
安徳
治承四年九月五日
1180
頼朝、兵を伊豆に起し、隣国を征す、是日、平維盛等をして、東海・東山両道の兵を発し、之を追討せしむ、
54
安徳
治承四年九月七日
1180
義仲、兵を信濃に起す、是日、義仲、村山義直等と共に、平氏の党笠原頼直を市原に破る、
55
安徳
治承四年九月八日
1180
頼朝、北条時政をして、甲斐の源氏を率ゐ、信濃を平定せしめんとす、是日、時政、甲斐に発向す、
60
安徳
治承四年九月一〇日
1180
甲斐の人武田信義・一條忠頼等、諏訪大明神の神託に力を得て、伊那郡大田切郷に菅冠者を滅す、仍りて、信義・忠頼、諏訪社上社に平出・宮所両郷を、同社下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進す、 永萬元年六月、諏訪社、神祇官年貢として、布千端を貢進す、
60
安徳
治承四年九月一五日
1180
武田信義・一條忠頼等、信濃の敵を討ちて、甲斐に還る、是日、北条時政、甲斐逸見山に、信義・忠頼等と会す、
63
安徳
治承四年一〇月一三日
1180
義仲、上野に入る、
63
安徳
治承四年一〇月一八日
1180
頼朝、軍を率ゐて駿河黄瀬川に至り、信濃・甲斐の源氏と会す、武田信義・一條忠頼等、菅冠者誅伐並びに諏訪社領寄進のことを頼朝に報ず、
64
安徳
治承四年一一月一日
1180
平忠清、同景清を信濃守に任じ、追討使と為すべきことを、平宗盛に進言す、
65
安徳
治承四年一一月一三日
1180
義仲、藤原助弘をして、その所領を安堵せしむ、
65
安徳
治承四年一二月三日
1180
越後の人城資永、信濃・甲斐の源氏を討たんことを請ふ、尋で、資永、宣旨を得て兵を発し、病歿すとの風聞、京都に達す、
66
安徳
治承四年一二月二四日
1180
義仲、上野多胡庄を去りて信濃に還る、
69
安徳
養和元年三月二六日
1181
中原国盛、信濃権介に任ぜらる、
70
安徳
養和元年四月一〇日
1181
信濃の人笠原頼直、勘解由判官に任ぜらる、
71
安徳
養和元年五月一六日
1181
頼朝、村山義直をして、所領高井郡村山・米持の地を安堵せしむ、
72
安徳
養和元年六月一三日
1181
城資永の弟資職、信濃に攻め入る、尋で、義仲、筑磨河横田河原に之を迎へ撃つて、敗走せしむ、
72
安徳
養和元年六月一五日
1181
信濃等、大和興福寺造営のことを宛て課せらる、
87
安徳
養和元年八月一五日
1181
平経正、義仲追討の為め、北陸道に進発す、尋で、平通盛、亦進発す、
89
安徳
養和元年八月一五日
1181
義仲追討の功に依り、城資職を越後守に任ず、尋で、資職死す、
90
安徳
養和元年八月一六日
1181
信濃擾乱するに依りて、駒牽の儀を停止す、
94
安徳
養和元年九月六日
1181
平通盛等、義仲の軍と越前水津に戦ひ、敗退して同国敦賀に拠る、尋で、京都に退く、
95
安徳
養和元年一〇月
1181
僧増秀、戸隠社の大般若経を書写す、 この後、増秀、引続き、戸隠社の大般若経を書写す、
97
安徳
養和元年一一月二八日
1181
藤原良広、信濃権介に任ぜらる、
98
安徳
寿永元年三月一一日
1182
信濃権守大江成棟罷めらる、
99
安徳
寿永二年一月二二日
1183
藤原能成、信濃権守に任ぜらる、
99