長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻三 (400頁~)
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後鳥羽
文治四年一〇月四日
1188
加々美遠光の女、頼朝の子万寿(頼家)、に近待す、尋で、頼朝、之を大弐局と称せしむ、
400
後鳥羽
文治四年九月二二日
1188
頼朝、後白河法皇の旨を承け、伊那郡伴野庄地頭小笠原長清の同庄年貢を懈怠するを誡め、未進分を弁済せしむ、是日、頼朝、之を奏上す、
400
後鳥羽
文治五年一月九日
1189
源頼家、弓始を行ふ、藤沢清親・海野幸氏等、射手を勤む、
402
後鳥羽
文治五年五月一九日
1189
加々美遠光等、鶴岡八幡宮の塔供養の布施として馬を献ず、是日、頼朝、之を覧る、
402
後鳥羽
文治五年七月一九日
1189
頼朝、藤原泰衡征討の為め、奥州に進発す、加々美遠光以下信濃の士、多く之に随ふ、
403
後鳥羽
文治五年八月九日
1189
藤沢清親、陸前阿津賀志山の合戦に先登を競ふ、
405
後鳥羽
文治五年一二月二三日
1189
源義経・同義仲及び藤原秀衡の子等、鎌倉を窺はんとする風聞あり、是日、頼朝、小諸光兼以下信濃・越後両国の御家人等をして之に備へしむ、
406
後鳥羽
建久元年一月一三日
1190
頼朝、藤原泰衡征討の為め、信濃・上野の御家人に出陣を命ず、尋で、また、小諸光兼に之を命ず、
406
後鳥羽
建久元年一月二四日
1190
藤原資経、信濃守に任ぜらる、
407
後鳥羽
建久元年二月二二日
1190
後白河法皇、頼朝をして、諸国地頭等の造太神宮役夫工米を進済せざるを禁ぜしむ、是日、頼朝、その知行国の中、下総国を除き、信濃国以下の諸国に、之を加免せられんことを奏す、
408
後鳥羽
建久元年四月三日
1190
鶴岡八幡宮祭あり、海野幸氏等、流鏑馬の射手を勤む、
409
後鳥羽
建久元年四月一九日
1190
頼朝、諸国地頭の造太神宮役夫工米未済の子細、並びに信濃・越後両国の分は、前国務沙汰人をして究済せしむべき旨を奏す、
410
後鳥羽
建久元年四月四日
1190
信濃国、主殿寮所管の年別油の進済を懈怠するに依り、同寮、之を催促せられんことを奏す、
411
後鳥羽
建久元年五月三日
1190
頼朝、故一條忠頼の追善供養を行ふ、信救得業(大夫坊覚明)、導師を勤む、
413
後鳥羽
建久元年六月六日
1190
頼朝、信濃の造太神宮役夫工米未済の所々に、催促を加ふ、
413
後鳥羽
建久元年一一月七日
1190
頼朝、権大納言兼右近衛大将に任ぜらるるを以て、京都に赴き、是日入京す、小笠原長清等信濃の諸士、多く之に随ふ、
414
後鳥羽
建久元年一月一一日
1190
頼朝、京都六條若宮並びに石清水八幡宮等に参詣す、小笠原長清等信濃の諸士、多く之に随ふ、
418
後鳥羽
建久元年一二月
1190
某、平康家の請文の旨に任せ、六條院領安曇郡千国庄小谷・飯森両所をして、年貢布を弁済せしむ、
420
後鳥羽
建久二年一月五日
1191
頼朝、弓始を行ふ、藤沢清親等、射手を勤む、
421
後鳥羽
建久二年二月四日
1191
頼朝、箱根・三島両社に参詣す、小笠原長清等、随兵を勤む、
422
後鳥羽
建久二年二月二一日
1191
頼朝、捧紀五近永の諏訪社下社領筑摩郡塩尻西條の所当を懈怠するを停め、近永をして之を弁済せしむ、
423
後鳥羽
建久二年三月四日
1191
鎌倉に火災あり、幕府及び村上義国等の屋敷この難に遭ふ、
424
後鳥羽
建久二年七月二八日
1191
頼朝、新亭成るに依り、移徙の儀を行ふ、村上頼時等、随兵を勤む、
425
後鳥羽
建久二年九月二一日
1191
頼朝、相模稲村崎に遊び、小笠懸を行ふ、藤沢清親等、射手を勤む、
426
後鳥羽
建久二年一〇月二二日
1191
善光寺新造せらる、是日、供養を行ふ、
427
後鳥羽
建久二年一〇月
1191
某、長講堂領安曇郡住吉庄並びに水内郡市村高田庄等の年中課役を院庁に注進す、
427
後鳥羽
建久三年一月五日
1192
頼朝、的始を行ふ、藤沢清親等、射手を勤む、
429
後鳥羽
建久三年三月
1192
後白河法皇院庁、同法皇寵妾高階栄子の所領安曇郡住吉庄等、諸庄の勅事・院事・国役、国郡司以下の妨等を停む、
430
後鳥羽
建久三年八月九日
1192
頼朝の室政子、男子千万(実朝)、を生む、大弐局、(加々美遠光女)、之に近待す、尋で、加々美遠光、千万の三夜の儀に参仕す、 十一月五日、大弐局、千万の行始の儀に参仕す、
432
後鳥羽
建久三年八月
1192
伊勢神宮の祢宜等、信濃等の神領の子細を注進す、
434
後鳥羽
建久三年一一月二五日
1192
頼朝、永福寺供養に臨む、加々美遠光等、供奉す、
438
後鳥羽
建久三年一二月五日
1192
頼朝、浜御所に於て、加々美遠光等に千万の擁護を依頼す、遠光等、之を諾す、
439
後鳥羽
建久三年一二月一〇日
1192
頼朝、藤原助弘を高井郡中野郷西条並びに同郡樒山の地頭職に補す、
440
後鳥羽
建久四年三月二一日
1193
頼朝、下野那須野・信濃三原に猟せんとし、是日、鎌倉を発す、金刺盛澄等、之に従ふ、
441
後鳥羽
建久四年三月二五日
1193
頼朝、武蔵入間野に追鳥狩を行ふ、藤沢清親、射芸の妙技を顕し、頼朝の賞を受く、
442
後鳥羽
建久四年四月
1193
是より先、頼朝、信濃等十一箇国の正税を以て、東寺の諸堂再興の資に宛てんとして成らず、是日、播磨を東寺に付して、之に替へしむ、
443
後鳥羽
建久四年五月八日
1193
頼朝、駿河富士野に猟せんが為め、鎌倉を発す、海野幸氏等信濃の諸士、多く之に随ふ、 十六日、幸氏、勢子餅の陪膳を勤む、
444
後鳥羽
建久四年五月二八日
1193
海野幸氏等、富士野に於て曽我祐成・時致兄弟と戦ひ、疵を蒙る、
445
後鳥羽
建久四年五月二九日
1193
頼朝、曽我時致を御前の庭上に引かしむ、小笠原長清等、此の座に候す、
446
後鳥羽
建久四年六月一八日
1193
曽我祐成の妾虎、出家す、尋で、善光寺に赴く、
446
後鳥羽
建久四年八月一六日
1193
頼朝、鶴岡八幡宮放生会に流鏑馬を行ふ、海野幸氏等、射手を勤む、
447
後鳥羽
建久四年一一月二七日
1193
頼朝、永福寺薬師堂供養に臨む、村上頼時等、随兵を勤む、
448
後鳥羽
建久四年
1193
神鳳鈔成り、伊勢太神宮領信濃近麻続御厨等、諸国の神戸・御厨・御薗・神田・名田等を上進せる分を注す、
449
後鳥羽
建久五年一月八日
1194
幕府弓始、海野幸氏等、射手を勤む、
451
後鳥羽
建久五年二月二日
1194
北条義時の嫡子金剛(泰時)、元服す、加々美遠光等、其の儀に列す、
452
後鳥羽
建久五年六月二八日
1194
是より先、頼朝、東大寺造営を助成せんとし、諸国御家人等に命じて仏像等を造らしむ、小笠原長清には多聞天像の造立を課す、是日、頼朝、其の遅延を誡む、
453
後鳥羽
建久五年七月一六日
1194
幕府、佐久郡大井庄年貢の今年究済の期日を定む、
454
後鳥羽
建久五年八月八日
1194
頼朝、相模日向山薬師堂に参詣す、小笠原長清等、随兵を勤む、
454
後鳥羽
建久五年閏八月一日
1194
頼朝、相模三浦に小笠懸を行ふ、藤沢清親等、射手を勤む、
455
後鳥羽
建久五年一〇月九日
1194
頼朝、小山朝政の第に臨み、金刺盛澄等弓馬堪能の士を召して、流鏑馬の故実を議せしむ、
456
後鳥羽
建久五年一〇月二五日
1194
鎌田正清の女、旧主義朝及び父正清の菩提の為めに、法華経十種供養を相模勝長寿院に行ふ、 信救得業、願文を草す、
457
後鳥羽
建久五年一一月二一日
1194
頼朝、鶴岡八幡宮の三嶋別宮に参詣し、千番小笠懸を行ふ、藤沢清親等、射手を勤む、
458
後鳥羽
建久五年一二月二六日
1194
頼朝、相模永福寺新造薬師堂供養に臨む、小笠原長清等、之に供奉す、
459
後鳥羽
建久六年一月一三日
1195
頼朝、鶴岡八幡宮に参詣す、海野幸氏等、之に供奉す、
460
後鳥羽
建久六年三月一〇日
1195
頼朝、東大寺供養に列せんが為め、奈良に到る、信濃の諸士、多く之に供奉す、
460
後鳥羽
建久六年三月一二日
1195
頼朝、東大寺供養に臨む、海野幸氏・藤沢清親等、選ばれて惣門の警固を勤む、
463
後鳥羽
建久六年五月二〇日
1195
頼朝、摂津天王寺に参詣す、小笠原長清等、随兵を勤む、
464
後鳥羽
建久六年六月
1195
善光寺沙門定尊、同寺阿弥陀三尊仏を摸造す、尋で、寂す、
466
後鳥羽
建久六年八月一五日
1195
頼朝、鶴岡放生会に臨む、望月重隆等、之に供奉す、
467
後鳥羽
建久六年八月一六日
1195
頼朝、鶴岡八幡宮に参詣し流鏑馬を行ふ、海野幸氏等、射手を勤む、
467
後鳥羽
建久六年八月二三日
1195
是より先、頼朝、善光寺参詣の志あり、是日、寒冷に向ふを以て之を延期す、
468
後鳥羽
建久六年一〇月一三日
1195
頼朝、信救得業を箱根山に閉居せしむ、 信救得業の伝記、
468
後鳥羽
建久七年一一月一四日
1196
五節、信濃国、舞姫を献ず、
470
後鳥羽
建久八年三月二三日
1197
頼朝、善光寺に参詣すと伝ふ、
471
後鳥羽
建久八年八月一六日
1197
信濃諸牧、貢馬を牽進す、藤原定家、同資実と桐原駒の和歌を贈答す、 駒牽を詠める定家の歌、
474
土御門
建久九年一月三〇日
1198
小県郡塩田庄地頭嶋津忠久、左衛門尉に任ぜらる、
476
土御門
正治元年三月二四日
1199
除目、卜部兼直、信濃権守に任ぜらる、
477
土御門
正治元年四月二〇日
1199
頼家、鎌倉の士庶に令して、中野能成等五人の従類に抵抗するを禁じ、且五人の外は、命なくして入見すること勿らしむ、
477
土御門
正治元年七月二〇日
1199
頼家、中野能成を遣はし、安達景盛の妾を小笠原長経の宅に拘禁せしむ、尋で、之を北向御所に移し、重ねて、中野能成等五人の外の入見を禁ず、
478
土御門
正治元年八月一九日
1199
頼家、中野能成等をして、安達景盛を討たしめんとし、平政子の諫に依りて之を止む、
479
土御門
正治元年九月二五日
1199
頼家、諏訪社上社に神馬を、又同社下社に剣を献ず、
480
土御門
正治二年一月七日
1200
幕府弓始、藤沢清親等、射手を勤む、
481
土御門
正治二年二月二六日
1200
頼家、鶴岡八幡宮に参詣す、中野能成等、之に供奉す、
481
土御門
正治二年閏二月八日
1200
頼家、伊豆藍沢原に猟す、海野幸氏等、射手として之に供奉す、
483
土御門
正治二年八月二一日
1200
頼家、宮城家業の奥州追討に餞せんが為め、中野能成をして馬を牽かしむ、
483
土御門
正治二年九月二日
1200
頼家、相模小壺の海辺に遊び、笠懸を行ふ、海野幸氏等、射手を勤む、
484
土御門
建仁元年一月一二日
1201
幕府的始、望月重隆等、射手を勤む、
485
土御門
建仁元年四月三日
1201
是より先、越後の人城資盛叛す、是日、幕府、佐々木盛綱をして之を討たしむ、尋で、信濃・越後の士、多く盛綱に属して奮戦し、資盛の軍を破る、藤沢清親、資盛の姨母坂額を虜る、 六月廿八日、頼家、坂額を覧る、
486
土御門
建仁元年九月一八日
1201
頼家、中野能成等をして猟犬を飼はしむ、
488
土御門
建仁元年九月二二日
1201
頼家、遊興に耽りて、政務を怠る、北条泰時、中野能成をして之を諷諫せしめ、却つて頼家の不興を蒙る、
489
土御門
建仁二年一月三日
1202
幕府弓場始、海野幸氏等、射手を勤む、
491
土御門
建仁二年四月一五日
1202
除目、信濃国を以て藤原良経の知行国となす、
491
土御門
建仁二年八月一六日
1202
信濃諸牧、貢馬を牽進す、
492
土御門
建仁二年九月一八日
1202
頼家、鶴岡八幡宮に参詣す、中野能成等、之に供奉す、
492
土御門
建仁二年九月二一日
1202
頼家、伊豆・駿河両国に猟す、中野能成等、側近に供奉し、海野幸氏等、射手を勤む、
493
土御門
建仁二年九月二九日
1202
頼家、新田忠常第に小笠懸を行ふ、海野幸氏等、射手を勤む、
493
土御門
建仁二年一〇月二一日
1202
是より先、信濃国司等、不動倉を開検せんことを奏す、是の日、三善長盛、其の奏文を右大臣藤原家実に伝進す、
494
土御門
建仁三年一月三日
1203
幕府的始、金刺盛澄等、射手を勤む、
495
土御門
建仁三年一月一三日
1203
除目、藤原公信、信濃権守に任ぜらる、
496
土御門
建仁三年二月一〇日
1203
滋野兼忠等、阿弥陀如来坐像並びに脇侍像二躯を造立す、
497
土御門
建仁三年四月二五日
1203
藤原資頼、信濃守に任ぜらる、
498
土御門
建仁三年九月二日
1203
信濃国目代・同国守護比企能員、頼家と謀りて北条氏を滅さんとす、北条時政、能員を名越第に誘殺す、中野四郎等、時政に与す、
498
土御門
建仁三年九月四日
1203
北条時政、比企能員の与党中野能成等を拘禁し、嶋津忠久の大隅・薩摩・日向等の守護職を褫ふ、時政、能成をして特に其の所領を安堵せしむ、
499