長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻三 (200頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
安徳寿永二年八月一八日1183平家没官領五百余箇所の中、百四十余箇所を義仲に、九十余箇所を行家に与ふ、202
安徳寿永二年八月二〇日1183是より先、義仲、故以仁王の子北陸宮を皇位に即けられんことを請ふ、後白河法皇、之を却く、是日、後鳥羽天皇践祚す、204
後鳥羽寿永二年九月二〇日1183是より先、後白河法皇、義仲をして、平氏を討たしむ、是日、義仲、遽かに京都を発して播磨に向ふ、208
後鳥羽寿永二年九月1183義仲及び其の兵等、京中に於て狼藉を尽し、上下貴賎、頼朝の上洛を待つ、210
後鳥羽寿永二年一〇月六日1183頼朝、飛脚を以て、義仲の頼朝を討伐せんと図ることを後白河法皇に訴ふ、218
後鳥羽寿永二年一〇月九日1183頼朝上洛の風聞あるに依り、義仲、播磨に滞留して、京都に還らず、219
後鳥羽寿永二年一〇月一二日1183義仲、備中に下りて、妹尾兼康を討つ、220
後鳥羽寿永二年一〇月一四日1183是より先、頼朝、東海・東山・北陸三道諸国の貢税、並びに神社・仏寺・王臣家領の荘園を本主に還付すべき旨の宣旨を請ふ、是日、後白河法皇、義仲を憚り、北陸道を除き、東海・東山両道に宣旨を下す、227
後鳥羽寿永二年一〇月二三日1183後白河法皇、義仲に信濃・上野二国を与へて、北陸道を掠むることを熄めしめんとす、228
後鳥羽寿永二年一〇月二八日1183頼朝の上洛に依り、義仲、之と戦はんが為めに、播磨より帰京せんとすとの風聞あり、229
後鳥羽寿永二年閏一〇月一日1183義仲の将海野幸広等、平重衡等と備中水島に戦ひて敗死す、230
後鳥羽寿永二年閏一〇月二日1183平宗盛、義仲に降を乞ひ、助命を願ふとの風説あり、234
後鳥羽寿永二年閏一〇月一五日1183是より先、義仲、播磨より備中に転戦し、入京せんとすとの風聞あり、依りて後白河法皇之を制す、是日、義仲、法皇の命に背きて京都に入る、235
後鳥羽寿永二年閏一〇月一六日1183義仲、平軍の憂ふるに足らざるを後白河法皇に奏し、併せて頼朝の将源義経等の入京を防がんことを請ふ、237
後鳥羽寿永二年閏一〇月二〇日1183是より先、義仲、後白河法皇を奉じて関東に赴かんと謀るとの説あり、是日、法皇、義仲を詰問す、義仲、その無実なるを陳じ、併せて頼朝追討の宣旨を請ふ、尋で、法皇、之を聴さず、240
後鳥羽寿永二年一〇月二二日1183是より先、頼朝、宣旨を施行せんが為め、使者を伊勢に遣はす、国人等、之を憑みて、義仲の郎従を射る、是日、義仲、重ねて、行家の密告の無実なるを陳じ、併せて源義広をして、平氏を討たしめんことを請ふ、242
後鳥羽寿永二年閏一〇月二四日1183義仲、重ねて後白河法皇に奏し、源義広に備後国を与へ、以て平氏を討たしめんことを請ふ、法皇、之を聴さず、244
安徳寿永二年一〇月二六日1183義仲、平氏追討の院宣を顧みず、頼朝追討を策して、興福寺僧徒を誘ふ、僧徒等、応ぜず、245
後鳥羽寿永二年一一月八日1183是より先、義仲・行家、平家追討の為め、西下を志し、事に依りて延引す、義仲、又頼朝の軍に備へんが為め、之を中止す、是日、行家発向す、246
後鳥羽寿永二年一一月一〇日1183後白河法皇、頼朝の使者義経の入京を許さん事を義仲に告ぐ、義仲已むなく承伏す、251
後鳥羽寿永二年一一月一七日1183後白河法皇、義仲と互に兵を動かさんとすとの風説あるに依り、京中騒動す、是日、法皇、使を義仲に遣はして、京都退去を命ず、252
後鳥羽寿永二年一一月一八日1183後鳥羽天皇、義仲の叛に備へんが為め、密に法住寺殿に行幸す、又藤原兼実、後白河法皇の義仲と抗するの軽挙を切諫す、255
後鳥羽寿永二年一一月一九日1183義仲、法住寺殿を攻めて、後白河法皇の軍を破り、法皇を藤原基通の五条第に、又後鳥羽天皇を閑院内裏に遷す、258
後鳥羽寿永二年一一月二一日1183義仲、藤原光長以下百余人の首級を京都五条河原に梟す、274
後鳥羽寿永二年一一月二一日1183義仲、藤原基房と謀り、摂政同基通を罷めて、基房の子権大納言同師家を内大臣に任じ、摂政となす、尋で、義仲自ら院御厩別当となる、276
後鳥羽寿永二年一一月二八日1183義仲、権大納言藤原兼雅の出仕を停め、中納言藤原朝方等後白河法皇の近臣等四十余人を解官し、その所領を没収す、282
後鳥羽寿永二年一一月二八日1183摂政藤原師家、義仲をして前摂政同基通の所領八十六箇所を領せしむ、285
後鳥羽寿永二年一一月二九日1183行家、平軍と播磨室泊に戦ひて敗れ、又多田行綱、義仲に叛すとの風聞あり、286
後鳥羽寿永二年一二月二日1183後白河法皇、義仲をして平家没官領を総領せしむ、288
後鳥羽寿永二年一二月三日1183是より先、頼朝の代官義経等、伊勢に在り、義仲、兵を遣はして之を討つ、是日、義仲、之を後白河法皇に奏す、288
後鳥羽寿永二年一二月七日1183醍醐禅師全成、中野助弘を高井郡中野郷西条の下司職に補す、289
後鳥羽寿永二年一二月一〇日1183義仲、平氏追討の為め、西国に下向せんとし、後白河法皇を石清水八幡宮に遷さんと謀りて成らず、290
後鳥羽寿永二年一二月一〇日1183後白河法皇、義仲の奏請により、頼朝追討の院庁下文を下す、293
後鳥羽寿永二年一二月一〇日1183義仲、左馬頭を辞す、尋で、従五位上に叙せらる、293
後鳥羽寿永二年一二月一一日1183是より先、延暦寺衆徒等、義仲と隙あり、是日、権僧正俊尭、義仲の推挙に依り、天台座主に補せらる、仍りて衆徒等、義仲と戦はんとす、尋で、後白河法皇、之を和解せしむ、295
後鳥羽寿永二年一二月一五日1183後白河法皇、鎮守府将軍藤原秀衡に院庁下文を下し、義仲と共に頼朝を討たしむ、298
後鳥羽寿永二年一二月一七日1183義仲、院の歳末御懺法の資を調進す、298
後鳥羽寿永二年一二月二一日1183頼朝、義仲を討たんとし、延暦寺衆徒等を誘ふ、尋で、衆徒等、之に応ず、299