長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻三 (500頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
土御門
建仁三年九月一九日
1203
中野能成等、比企能員の事に依りて、所領を褫はる、尋で、高井郡志久見郷地頭職の知行を宥免せらる、
501
土御門
建仁三年一〇月九日
1203
幕府弓始、海野幸氏等、射手を勤む、
502
土御門
建仁三年一一月七日
1203
幕府、中野能成等を遠流に処すべきことを定む、
503
土御門
元久元年一月一〇日
1204
幕府弓始、海野幸氏等、射手を勤む、
504
土御門
元久元年二月一二日
1204
源実朝、相模由比浜に笠懸を行ふ、藤沢清親等、射手を勤む、
505
土御門
元久元年二月二一日
1204
幕府、中野四郎の高井郡中野郷内同能成の名田・屋敷等を妨ぐるを停め、能成をして之を安堵せしむ、 三月一九日、幕府、能成に、中野郷内同人内作一町八段を付す、
505
土御門
元久元年四月二三日
1204
藤原兼実、同家所領の処分状を書す、此の中に宜秋門院庁分更級郡千田小中嶋庄のこと見ゆ、
507
土御門
元久二年一月三日
1205
幕府弓始、藤澤清親等、射手を勤む、
511
土御門
元久二年一月二九日
1205
除目、藤原祐康、信濃介に任ぜらる、 十一月十九日、祐康、信濃介を解任せらる、
511
土御門
元久二年四月四日
1205
藤原家時、信濃守に任ぜらる、
513
土御門
元久二年六月二二日
1205
北条時政、同義時を遣はして、畠山重忠を武蔵二股川に殺す、時に、重忠の弟長野重清、信濃にあり、
513
土御門
建永元年一月一三日
1206
藤原実嗣、信濃介に、同実親、信濃権介に任ぜらる、
514
土御門
建永元年三月一三日
1206
信濃の人桜井五郎、鵙を用ひて鳥を獲る、実朝、之を賞す、
515
土御門
建永元年六月四日
1206
東大寺重源寂す、是より先、重源、善光寺に参詣すと伝ふ、
517
土御門
建永元年九月二二日
1206
臨時除目、藤原基綱、信濃守に任ぜらる、
518
土御門
承元元年三月一六日
1207
僧源空(法然)、罪に依り土佐に流さる、是日、京都を発す、信濃の人角張成阿弥陀仏、其の輿を舁ぐと伝ふ、
520
土御門
承元元年五月一四日
1207
後鳥羽法皇、藤原定家に命じて、最勝四天王院の障子絵を画工に画かしむ、信濃房康俊、選ばれて信濃の更級里の絵を画く、
521
土御門
承元四年三月一九日
1207
藤原隆綱、信濃守に任ぜらる、
522
土御門
承元四年八月一二日
1210
幕府、近江園城寺の請に依りて、善光寺地頭長沼宗政を罷む、
523
土御門
承元四年一〇月一三日
1210
幕府、守護地頭に令して、諸国の勅旨牧を興行せしむ、
524
土御門
承元四年
1210
仁科盛家の室、仏母尼、遍照光院本堂を建立すと伝ふ、
524
順徳
建暦元年一月九日
1211
幕府弓始、海野幸氏等、射手を勤む、
525
順徳
建暦二年一月一一日
1212
幕府弓始、藤沢清親等、射手を勤む、
526
順徳
建暦二年八月一九日
1212
幕府、諸国守護地頭に令して、鷹狩を禁ず、但し、諏訪社御贄鷹に於ては特に之を許す、
526
順徳
建保元年二月一五日
1213
是より先、信濃の人泉親平、信濃・下総等の士を誘ひ、頼家の子千手を奉じて乱を謀る、是日、幕府、親平の使安念を捕ふ、明日、安念の白状に依りて其の党を捕ふ、親平、逃亡す、
527
順徳
建保元年五月二日
1213
和田義盛、鎌倉に叛す、海野幸広等、之と戦ひて討死す、
531
順徳
建保元年八月二〇日
1213
実朝、新御所に移徙す、小笠原長清等、随兵を勤む、
533
順徳
建保元年一一月一一日
1213
藤原隆衡、信濃国を賜はり、五節舞姫を献ず、
534
順徳
建保二年三月一五日
1214
是より先、僧仲円、頼朝の為めに、鶴岡八幡宮に長日仁王会・法華会を修し、頼朝、信濃伊那郡遠山庄を其の料所に充つ、是日、仲円、同宮寺供僧職に補せらる、
535
順徳
建保二年五月二二日
1214
是より先、延暦寺衆徒、園城寺衆徒と争ひ、園城寺を焼く、是日、流人宣下あり、延暦寺の僧琳覚、信濃に流さる、
537
順徳
建保三年五月一二日
1215
僧行顕、美濃恵那郡遠山庄馬籠村法明寺の大般若経を校合す、
538
順徳
建保三年一〇月二四日
1215
内裏名所百首和歌会、其の詠題中に、信濃更級里あり、 更科山・姨捨山を詠める歌、信濃に関する歌、
539
順徳
建保三年一二月二〇日
1215
幕府、絹布等を善光寺僧徒に施す、
544
順徳
建保四年五月九日
1216
筑前安楽寺の悪僧等、官使刃傷のことに依りて、流刑に処せらる、此の中、義円、信濃に流さる、
545
順徳
建保四年一〇月五日
1216
実朝、諸人庭中の言上を聴く、海野幸氏、上野三原堺の事に就きて言上す、
545
順徳
建保四年一二月二五日
1216
小笠原長清、甲斐の所領内にある堂舎を修造し、頼朝の菩提に資し、向後将軍家の祈願寺たらしめんことを請ひて許さる、
546
順徳
建保五年一月二八日
1217
藤原親輔、信濃権守に任ぜらる、尋で、解任せらる、
546
順徳
建保年間
1213
宇治拾遺物語成る、其の中に信濃に関する説話あり、
547
順徳
承久元年一月二二日
1219
藤原盛兼、信濃介に任ぜらる、
556
順徳
承久元年一月二七日
1219
中野助能、公暁の党、阿闍梨勝円を捕ふ、 是日、市河助光等、実朝の拝賀の儀に列す、
556
順徳
承久元年閏二月一四日
1219
信濃の人入道上人、京都清水寺に百箇日参籠す、是日、結願す、
557
順徳
承久元年七月一九日
1219
左大臣藤原道家の子三寅、鎌倉に着す、小笠原時長等、随兵を勤む、
557
順徳
承久元年八月一五日
1219
諏訪社上社、社領諏訪郡田沢以下十郷の田地及び在家の目録を注す、
559
順徳
承久元年一一月九日
1219
幕府、左馬寮使の諏訪社下社領岡野・立野両村を違乱するを停む、
560
順徳
承久二年二月一日
1220
諏訪社上社、正月一日の神事次第を注す、
561
順徳
承久二年四月八日
1220
滋野某夫妻、逆修供養を行ひ、石造宝塔二基を造立す、 嘉禄三年十月十四日、滋野盛道、亡父母菩提の為め、石造宝塔一基を造立す、
562
順徳
承久二年七月二五日
1220
左馬寮、信濃国十九牧の牧司等をして、諏訪社下社領立野・岡野両牧を違乱すること勿らしむ、
564
仲恭
承久三年五月八日
1221
幕府、嶋津忠久を水内郡太田庄地頭職に補す、
566
仲恭
承久三年五月一五日
1221
是より先、北条義時、後鳥羽上皇の北面仁科盛遠の所領を奪ふ等、上皇の意に逆ふ所あり、依りて、是日上皇兵を遣はして京都守護伊賀光季を誅し、五畿七道に令して義時を追討せしむ、信濃の人志賀五郎、京軍に参じて奮戦す、
566
仲恭
承久三年五月一九日
1221
是より先、後鳥羽上皇、北条義時追討の宣旨を、小笠原長清等東国の士に下さんとす、是日、其の使者鎌倉に捕へらる、義時、信濃等東国の士に令して、京都に出陣を促す、
569
仲恭
承久三年五月二一日
1221
北条義時、その子泰時を大将軍となし、東海道より京都に攻め上らしむ、尋で、小笠原長清等、東山道の、北条朝時、北陸道の将となり、信濃の士、多く之に従ふ、諏訪信重、神氏の正嫡として始めて出陣す、
571
仲恭
承久三年五月三〇日
1221
市河六郎、北陸道軍の来着に先んじて越後の京軍を攻め、功を致す、
574
仲恭
承久三年六月三日
1221
京軍、北条氏の軍を防がんが為め、諸道に進発す、仁科盛遠等、兵を北陸道に進む、
575
仲恭
承久三年六月五日
1221
小笠原長清等、諏訪信重等を率ゐて、美濃大井戸に至り、京軍を破る、大将軍大内惟信以下逃亡す、此の時、信濃の人大妻兼澄、京軍に属して奮戦す、
576
仲恭
承久三年六月七日
1221
北条泰時、小笠原長清等に西路へ先発を命ず、長清、之を辞するも許されず、
584
仲恭
承久三年六月八日
1221
京軍の将仁科盛遠等、越中に北条朝時の軍と戦ふ、
585
仲恭
承久三年六月八日
1221
諏訪社上社大祝諏訪盛重、北条氏の軍の戦勝を社前に祈り、巻数を幕府に献ず、
587
仲恭
承久三年六月一〇日
1221
法印尊長、日吉社領小県郡浦野庄以下の所領を道覚親王に譲る、
587
仲恭
承久三年六月一四日
1221
北条泰時の軍、京軍と山城宇治川に戦ひ、春日貞幸、溺れんとす、泰時、之に介抱を加ふ、尋で、貞幸、泰時の渡河せんとするを止む、
588
仲恭
承久三年六月一四日
1221
信濃の人福地俊政、京軍に属し、近江勢多の合戦に、強弓を以て奮戦す、
593
仲恭
承久三年六月一七日
1221
北条泰時等、六波羅に戦功を議す、春日貞幸、宇治川先陣の事につき證言す、
595
仲恭
承久三年六月一八日
1221
北条時氏の馬、宇治の戦に傷く、泰時、京軍の捕虜伴野遠久をして之に療養を加へしむ、
596
仲恭
承久三年六月一八日
1221
北条泰時、合戦の軍忠並びに討死・手負の交名を幕府に進む、信濃の士、多く此の中に加へらる、
597
後堀河
承久三年七月一八日
1221
幕府、島津忠久をして水内郡太田庄地頭職を安堵せしむ、
601
後堀河
承久三年七月二九日
1221
小笠原長清、京軍の与党、前中納言源有雅を甲斐稲積庄に誅す、
602
後堀河
承久三年八月七日
1221
幕府、諏訪社上社に越前宇津目保を寄進し、戦勝を報賽す、 中沢真氏、出雲淀本庄頭職に補せらる、
603
後堀河
承久三年八月一六日
1221
信濃望月牧、貢馬を牽進す、駒牽上卿藤原実氏、同定家と望月駒の和歌を贈答す、
605
後堀河
貞応元年一月七日
1222
幕府弓始、小笠原時長等、射手を勤む、
606
後堀河
貞応元年二月二一日
1222
茂木知基、小県郡依田庄内五箇村等の所領を、其の子一王に譲る、
606
後堀河
貞応元年七月三日
1222
藤原実雅、相模大倉亭に、百日小笠懸を始む、小笠原時長等、射手を勤む、
608
後堀河
貞応元年一二月一三日
1222
北条義時、男子平産により、験者以下に賞を授く、中野能成、加持僧に給する馬を牽く、
609
後堀河
貞応二年一二月一三日
1223
諏訪信時、諏訪社上社大祝の位に即く、
610
後堀河
元仁元年八月二九日
1224
是より先、北条義時の室伊賀氏、伊賀光宗と謀り、女婿藤原実雅を将軍と為さんとして、事露る、是日、光宗、信濃に流さる、
610
後堀河
元仁元年一一月一一日
1224
是より先、幕府、中野能成の高井郡志久見郷地頭職を罷め、北条重時を以て之に補す、是日、幕府、中野能成に同職を還付す、
613
後堀河
元仁元年一二月二日
1224
是より先、北条泰時、祐通を遣はして、上野国を検注せんとして、土用検注の可否を陰陽師国通・晴幸等に問ふ、晴幸、上野・信濃両国堺確かならざるの先例に依り不可と答ふ、泰時、之を用ひず、是日、祐通、検注に赴く、
614
後堀河
嘉禄元年一月二三日
1225
藤原親季、信濃権介に任ぜらる、
614
後堀河
嘉禄元年七月三日
1225
嶋津忠義、水内郡太田庄津野郷地頭代職に補せらる、
615
後堀河
嘉禄元年九月九日
1225
信濃守護北条重時、中野能成の高井郡志久見郷地頭職の安堵を施行す、尋で、重時、同郷内に守護使の入部するを停む、
616
後堀河
嘉禄元年一二月二一日
1225
幕府評議始、将軍御所の定番人を定む、桜井次郎等、その結番に入る、
618
後堀河
嘉禄元年一二月二二日
1225
伊賀光宗、罪を許され、是日、信濃より鎌倉に帰参す、
618
後堀河
嘉禄二年九月二二日
1226
幕府に於て草鹿勝負あり、小笠原時長等、射手を勤む、
619
後堀河
嘉禄二年一一月四日
1226
臨時除目、前大納言藤原実宣、信濃国を知行す、尋で、藤原隆雅、信濃守に任ぜらる、
620