長野県立歴史館 信濃史料
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後堀河
安貞元年三月一二日
1227
信濃の僧承仙、山城泉涌寺維那職となる、
1
後堀河
安貞元年閏三月二七日
1227
藤原定家、信濃の国務を覧る、定家の伝記、
5
後堀河
安貞元年六月一八日
1227
水内郡太田庄地頭嶋津忠久卒し、子忠時嗣ぐ、太田庄相伝系図、
9
後堀河
安貞元年九月二五日
1227
藤原定家の使者、信濃より京都に帰り、国情を報ず、
14
後堀河
安貞元年一〇月五日
1227
是より先、藤原定家、信濃国司の補任を待つ、是日、藤原信忠、之に任ぜらる、
15
後堀河
安貞元年一〇月一〇日
1227
幕府、島津忠時をして、水内郡太田庄小嶋・神代・石村南・津野四箇郷地頭職等を安堵せしむ、
16
後堀河
安貞元年一〇月二七日
1227
水内郡千田郷庁官貢進の貢物、藤原定家の許に到る、
18
後堀河
安貞元年一二月二一日
1227
藤原定家、信濃より貢進の干桑・梨・銭等を収納す、信濃の梨に関する西行の和歌、
18
後堀河
安貞二年三月九日
1228
将軍藤原頼経、相模由比浜に犬追物を覧る、小笠原時長等、射手を勤む、
19
後堀河
安貞二年五月一〇日
1228
将軍頼経、小笠原時長等をして、馬場殿に流鏑馬を行はしむ、
20
後堀河
安貞二年六月二六日
1228
将軍頼経、相模杜戸浦に遊び、遠笠懸等を行ふ、小笠原時長等、射手を勤む、
20
後堀河
安貞二年七月二三日
1228
将軍頼経、三浦義村の相模田村の山荘に逗留す、小笠原時長等、随兵を勤む、明日、頼経、同所に遠笠懸等を行ふ、時長等、射手を勤む、
21
後堀河
安貞二年八月
1228
北安曇郡社村木舟の鉄製鰐口成る、
22
後堀河
安貞二年一一月九日
1228
信濃国知行主藤澤為家、今年五節舞姫を献ずベきを定めらる、
22
後堀河
寛喜元年一月一五日
1229
幕府弓始、藤澤光清等、射手を勤む、
23
後堀河
寛喜元年一月三〇日
1229
藤原兼頼、信濃介に任ぜらる、
24
後堀河
寛喜元年九月一七日
1229
将軍頼経、相模杜戸浦に遊び、犬追物を覧る、小笠原時長等、射手を勤む、
24
後堀河
寛喜元年一〇月二二日
1229
将軍頼経、相模由比浜に流鏑馬を覧る、小笠原時長等、射手を勤む、
25
後堀河
寛喜元年一二月一三日
1229
是より先、中野能成、その所領高井郡志久見山の鷹ノ子のことに就きて、木嶋兵衛尉と争ふ、是日、信濃守護北條重時、兵衛慰の違乱を停む、
25
後堀河
寛喜元年一二月二〇日
1229
是より先、藤原隆仲、信濃の吏務を執る、是日、隆仲出家す、
28
後堀河
寛喜二年閏一月二三日
1230
将軍頼経、相模由比浜に笠懸等を覧る、小笠原時長等、作物を射る、
30
後堀河
寛喜二年二月八日
1230
幕府、中野助能をして、その所領筑前勝木庄を本主勝木則宗に返付せしめ、替として、筑後高津・包行両名を知行せしむ、
30
後堀河
寛喜二年二月一九日
1230
将軍頼経、相模由比浜に犬追物を覧る、小笠原時長等、射手を勤む、
31
後堀河
寛喜二年二月三〇日
1230
鎌倉の諸士、幕府及び北條泰時第の門前に群集して騒動す、泰時、諏訪盛重等をして、之を鎮静せしむ、
32
後堀河
寛喜二年四月一九日
1230
加々美遠光卒す、
33
後堀河
寛喜三年一月二九日
1231
県召除目、大江景頼、信濃権介に任ぜらる、
38
後堀河
寛喜三年四月一四日
1231
信濃国、源雅親の知行国となり、同頼俊、信濃守に任ぜらる、
39
後堀河
寛喜三年八月二一日
1231
信濃守源頼俊、信濃異損の由を奏上す、
41
後堀河
貞永元年八月九日
1232
相模和賀江嶋の修築成る、幕府、諏訪盛重等をして、之を巡検せしむ、
42
四條
貞永元年一二月一五日
1232
源輔通、信濃守に任ぜらる、
43
四條
天福元年一月三日
1233
幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仕す、
43
四條
天福元年一月二五日
1233
藤原宗範、信濃権守に任ぜらる、
44
四條
天福元年五月九日
1233
後堀河上皇、京都新日吉社小五月会に赴き、流鏑馬を覧る、中野光成等、射手を勤む、
44
四條
天福元年五月
1233
石清水八幡宮寺所司等、更級郡小谷庄地頭等の、同寺安居頭役等を懈怠すること等を朝廷に注進す、
46
四條
文暦元年二月一四日
1234
京都北野社火く、尋で、信濃国、同社拝殿再興の事を課せらる、
47
四條
文暦元年三月五日
1234
北條泰時の孫経時、元服す、諏訪盛重等、参仕す、
49
四條
嘉禎元年閏六月一九日
1235
善光寺三尊像、京都に写し造らる、道俗、競ひて之を拝す、
50
四條
嘉禎元年九月一日
1235
鎌倉法華堂辺の湯屋火け、諏訪盛重、消火につとむ、尋で、北條泰時、その功を賞す、
50
四条
嘉禎元年一〇月二〇日
1235
信濃の僧覚心(無本、心地房)東大寺戒壇院に受戒す、尋で、高野山に登り、覚仏より密教を学び、同山金剛三昧院住持行勇(退耕、荘厳房)に従ひて禅門に帰し、また、同院前別当願性・大和三輪蓮道に従ひて密教を学ぶ、
51
四條
嘉禎二年七月一七日
1236
幕府、善光寺僧徒の訴に依り、同寺前地頭長沼宗政の代官等の非法を停む、
53
四條
嘉禎二年七月二八日
1236
信濃の人平林頼宗、豊後毛井社頭職に補せらる、平林氏、信濃御家人たることを記載する、弘安八年豊後国図田帳に見ゆ、
53
四條
嘉禎二年八月四日
1236
将軍頼経、鎌倉若宮大路新造御所に徙る、平賀三郎兵衛尉等、供奉人を勤む、
56
四條
嘉禎二年八月六日
1236
幕府弓始、藤澤光清等、射手を勤む、
57
四條
嘉禎二年一二月一九日
1236
北條泰時、新第を営み之に徙る、諏訪盛重、その南角に居を構ふ、
58
四條
嘉禎三年一月三日
1237
幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仕す、
59
四條
嘉禎三年一月一一日
1237
幕府弓始、小笠原時長等、射手を勤む、
59
四條
嘉禎三年三月八日
1237
幕府、近習の番を定む、平賀三郎兵衛尉等、その結番に入る、
60
四條
嘉禎三年四月一九日
1237
将軍頼経、源頼朝ノ室政子追善のために、相模大慈寺内に丈六堂を建立し、是日、その上棟の儀に臨む、小笠原時長等、随兵を勤む、
60
四條
嘉禎三年四月二六日
1237
幕府、小笠原時長をして、明年の摂津箕面堂供養の請僧布施を沙汰せしむ、
61
四條
嘉禎三年六月二三日
1237
将軍頼経、丈六堂供養に臨む、平賀三郎兵衛尉等、之に供奉す、
62
四條
嘉禎三年七月一九日
1237
海野幸氏、北條泰時の命に依り、泰時の子時頼に流鏑馬の故実を指南す、
63
四條
嘉禎三年九月一六日
1237
幕府、諏訪社の明年五月会の神事等のことを沙汰す、
64
四條
嘉禎三年一〇月一六日
1237
善光寺五重塔婆供養あり、僧生仏、善光寺に参詣す、
65
四條
暦仁元年一月三日
1238
幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仕す、
66
四條
暦仁元年一月二〇日
1238
幕府弓始、藤澤光清等、射手を勤む、
67
四條
暦仁元年二月一七日
1238
将軍頼経、京都に入る、大井光長等信濃の諸士、多く随兵を勤む、
67
四條
暦仁元年二月二八日
1238
是より先、将軍頼経、権中納言等に任ぜらる、是日、拝賀を行ふ、小笠原時長等、随兵を勤む、
69
四條
暦仁元年三月三日
1238
諏訪重信、諏訪社上社の大祝の位に即く、
70
四條
暦仁元年六月五日
1238
将軍頼経、大和春日社に参詣す、大井光長等、随兵を勤む、
71
四條
暦仁元年一二月三日
1238
北條経時、相模大庭野に猟す、小笠原時長等、之に随ふ、
71
四條
延應元年一月五日
1239
幕府弓始、藤澤光清等、射手を勤む、
72
四條
延應元年七月一五日
1239
北條泰時、小県郡小泉庄室賀郷内の田地を、善光寺不断念仏料所として寄進す、
73
四條
延應元年一一月一日
1239
幕府、信濃国司初任検注の時、諏訪社上社五月会・御射山会頭人の所領の検注を免除するの先例を、同社大祝信重に尋問す、尋で、重信の注進に依り、頭人の所領検注を一任中免除せしむ、
76
四條
延應元年
1239
覚心(無本、心地房)行勇(退耕、荘厳房)の相模寿福寺住持となりその任に赴くに随侍す、尋で、明年、その會下に維那を掌る、
77
四條
仁治元年一月三日
1240
幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仕す、
78
四條
仁治元年一月六日
1240
幕府弓始、小諸左衛門尉等、射手を勤む、
79
四條
仁治元年五月一四日
1240
幕府、信濃の人落合某の後家尼と、その子太郎との争論を裁して、太郎の訴訟を棄捐し、併せて、以後の祖父母・父母に對する争論を重科と定む、
79
四條
仁治元年八月二日
1240
将軍頼経、二所参詣のために、鎌倉を発す、大井光長等、之に随ふ、
80
四條
仁治元年一一月一二日
1240
五節の儀あり、信濃国知行主源輔通、五節舞姫を献ず、
82
四條
仁治二年一月三日
1241
幕府垸飯、小井弖師貞等、之に参仁す、
83
四條
仁治二年一月五日
1241
幕府弓始、小笠原時長等、射手を勤む、
83
四條
仁治二年一月二三日
1241
将軍頼経、馬場殿に射的の儀を行ふ、海野幸氏・望月重隆等、見證に候す、
84
四條
仁治二年二月一日
1241
藤原雅平、信濃権介に任ぜらる、
85
四條
仁治二年三月二一日
1241
僧光具、諏訪社仁王会料所として、田地を寄進す、
85
四條
仁治二年三月二五日
1241
海野幸氏、武田信光と、上野三原庄と佐久郡長倉保との境を争論す、是日、幕府、之を裁し、信光の押領を停む、
86
四條
仁治二年八月三〇日
1241
善光寺金剛五鈷鈴成る、貞應三年八月一八日、比丘栄忍等、金剛五鈷鈴を、また、某年、僧理阿、金剛五鈷杵を、それぞれ善光寺に寄進す、
87
四條
仁治二年九月三日
1241
北條経時、父時氏の遺命に依り、信濃の人奈古又太郎の承久勲功の追賞を幕府に申請す、
87
四條
仁治二年九月一四日
1241
北條経時、海野長氏等を随へて、伊豆藍沢に猟す、信濃・甲斐両国の諸士等、猟師を率ヰて之を迎ふ、
88
四條
仁治二年一一月四日
1241
将軍頼経、秋田義景ノ武蔵鶴見の別荘に、笠懸を行ふ、小笠原時長等、射手を勤む、
89
後嵯峨
仁治三年七月一五日
1242
小笠原長清卒す、
90