長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻四 (100頁~)
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後嵯峨
仁治三年
1242
覚心(無本、心地房)山城極楽寺に道元に参じ、菩薩戒を受く、
105
後嵯峨
寛元元年七月一七日
1243
幕府、将軍臨時供奉人の結番を定む、小笠原時長等、之に加へらる、
106
後嵯峨
寛元元年七月一九日
1243
信濃の人平林頼宗、豊後毛井社地頭職を、同頼忠に譲る、
108
後嵯峨
寛元元年八月一六日
1243
将軍頼経、鶴岡八幡宮に流鏑馬を行ふ、小笠原時長等、射手を勤む、
110
後嵯峨
寛元元年一〇月六日
1243
滋野光氏、所領小県郡海野庄加納田中郷地頭職を、子経氏等に譲る、
111
後嵯峨
寛元二年四月一二日
1244
東筑摩郡坂北村碩水寺の阿弥陀如来像成る、
113
後嵯峨
寛元二年六月五日
1244
是より先、信濃の人市村景家、千田蓮性の人勾引をなす由を幕府に訴ふ、是日、幕府、之を讒訴となし、過料として橋一所の修理を景家に課す、
114
後嵯峨
寛元二年七月一〇日
1244
佐久郡落合新善光寺の阿弥陀如来像、尋で八月、観音・勢至両像写し造らる、
115
後嵯峨
寛元二年八月三日
1244
幕府、市河高光の、旧妻藤原氏の密通にかかる讒訴を斥け、同女をして、論所埴科郡舟山庄内青沼村等の所領を安堵せしむ、
115
後嵯峨
寛元二年一二月三〇日
1244
幕府、滋野経氏をして、小県郡海野庄加納田中郷地頭職を安堵せしむ、
117
後嵯峨
寛元三年一月九日
1245
幕府弓始、小笠原七郎等、射手を勤む、
118
後嵯峨
寛元三年一月一〇日
1245
源季遠、信濃権守に、藤原公斉、同権介に任ぜらる、
118
後嵯峨
寛元三年八月一六日
1245
将軍藤原頼嗣、鶴岡八幡宮に、流鏑馬を行ふ、小笠原時長等、射手を勤む、
119
後嵯峨
寛元三年九月一二日
1245
諏訪盛重、左衛門尉に任ぜらる、
119
後嵯峨
寛元四年一月六日
1246
幕府弓始、大井光長等、射手を勤む、
120
後深草
寛元四年三月一四日
1246
善光寺供養あり、
121
後深草
寛元四年五月二五日
1246
是より先、執権北條経時卒し、同時頼嗣ぐ、北條光時等、之に乗じて謀叛を企て、鎌倉騒動す、是日、諏訪盛重等、鎮定に努む、
121
後深草
寛元四年六月二七日
1246
法興院御八講始、信濃等の諸国、所課の料物を進めず、
123
後深草
寛元四年一〇月一六日
1246
将軍頼嗣、馬場殿に笠懸を行ふ、小笠原長澄等、射手を勤む、
124
後深草
寛元四年一一月七日
1246
幕府、藤原惟家をして、諏訪社上社領筑摩郡白河郷地頭職を安堵せしむ、尋で、信濃守護北條重時、之を施行す、
125
後深草
寛元四年一一月一三日
1246
幕府、金刺為頼をして、和田郷地頭職を安堵せしむ、
126
後深草
寛元四年一二月二八日
1246
諏訪盛重等、北條時頼の命に依りて、幕府臺所乱入の徒を尋問す、
127
後深草
宝治元年二月二三日
1247
将軍頼嗣浜出始、小笠原長澄等、犬追物の射手を勤む、
128
後深草
宝治元年二月二五日
1247
某、水内郡戸隠社の大般若経を書写す
129
後深草
宝治元年六月五日
1247
是より先、三浦泰村の族叛す、是日、北條時頼、諸将をして之を討たしむ、諏訪盛重、功を顕す、
129
後深草
宝治元年九月一一日
1247
八田知定、疑状を幕府に呈し、恩賞に與らんことを請ふ、尋で、幕府、諏訪盛重をして、之を勲功奉行に示達せしむ、
132
後深草
宝治元年一一月五日
1247
小笠原長経卒す、
133
後深草
宝治元年一二月一〇日
1247
将軍頼嗣、馬場殿に遠笠懸を覧る、小笠原長澄等、射手を勤む、
138
後深草
宝治元年
1247
覚心(無本、心地房)上野長楽寺に到り、同寺住持栄朝(釈円坊)、の会下にあり、
138
後深草
宝治二年四月二〇日
1248
将軍頼嗣、相模由比浜に百番小笠懸を行はしむ、小笠原長綏等、射手を勤む、
140
後深草
宝治二年六月一〇日
1248
諏訪盛重、北條時頼の子宝寿時輔、の乳人となる、尋で、盛重、その雑事を行ふ、
140
後深草
宝治二年
1248
覚心(無本、心地房)朗誉(蔵叟、悲願房)と共に、甲斐心行寺に夏を過して省悟あり、尋で、山城勝林寺に同寺住持思順(天祐)に参ず、
141
後深草
宝治二年八月一五日
1248
将軍頼嗣、鶴岡放生会に臨む、小笠原長澄等、随兵を勤む、
142
後深草
建長元年一月二四日
1249
藤原茂通、信濃権介に任ぜらる、藤原公佐、先に信濃守りたり、
143
後深草
建長元年三月二八日
1249
覚心(無本、心地房)筑前博多を発して入宋し、杭州興聖萬寿寺(径山)に、同寺住持道冲(癡絶)に参ず、
144
後深草
建長元年八月六日
1249
僧幸万、懸仏を筑摩郡岩殿寺に寄進す、
146
後深草
建長元年一二月一五日
1249
中野能成、高井郡中野・志久見両郷の惣地頭職を、子忠能に譲る、
147
後深草
建長二年一月一日
1250
幕府垸飯、諏訪盛頼等、之に参仕す、
148
後深草
建長二年二月
1250
僧行西、佐久郡福王寺の阿弥陀如来像を修理す、
149
後深草
建長二年三月一日
1250
幕府、閑院内裏造営を諸士に課し、その目録を作り、大井光長等をして、築地用材等を調進せしむ、
149
後深草
建長二年三月二五日
1250
将軍頼嗣、方違のために、北條時頼第に入る、小笠原長澄等、之に供奉す、明日、頼嗣、時頼第に、小笠原長澄等をして射的を行はしむ、
153
後深草
建長二年四月二二日
1250
平林西仏、弟故頼宗の旧妻尼行阿と埴科郡英多庄内八郎丸名平林屋敷内桑井傔仗屋敷を争論して勝訴す、是日、西仏、之を頼宗の子頼敏に譲る、
154
後深草
建長二年八月一八日
1250
将軍頼嗣、相模由比浜に犬追物を行ふ、小笠原長澄等、射手を勤む、
155
後深草
建長二年一一月
1250
藤原道家、家領を処分す、その中に、善光寺不断念仏料所水内郡千田庄あり、
156
後深草
建長二年
1250
覚心(無本、心地房)湖州護聖万寿寺(道場)に、同寺住持如珏(荊叟)、に参じ、尋で、明州広利寺(阿育王山)に掛搭す、
160
後深草
建長三年一月一〇日
1251
幕府弓始、諏訪盛頼等、射手を勤む、
162
後深草
建長三年一月二九日
1251
諏訪社辺に鳥群斃死す、
163
後深草
建長三年二月五日
1251
小井弖能綱、伊那郡小井弖・二吉両郷の地頭職等を子師能に譲る、尋で、幕府、師能をして、之を安堵せしむ、
163
後深草
建長三年三月一四日
1251
是より先、諏訪社々頭の湖面に大島並びに唐船等幻出す、是日、同社、之を幕府に上申す、
167
後深草
建長三年七月三〇日
1251
幕府、諏訪盛重に命じ、陰陽師をして、風災を攘ひ、豊稔を祈らしむ、
168
後深草
建長三年八月二一日
1251
将軍頼嗣、相模由比浜に於て遠笠懸、犬追物等を行ふ、小笠原長澄等、犬追物の射手を勤む、廿四日、頼嗣、重ねて、笠懸・犬追物を行ひ、長澄、その射手を勤む、
168
後深草
建長三年一二月二六日
1251
是より先、鎌倉の人心動揺す、是日、幕府、謀叛人僧了行等を捕へ、諏訪盛重をして、之を尋問せしむ、
170
後深草
建長三年
1251
信濃の僧普門(無関)、入宋して、杭州霊隠景徳寺如珏(荊叟)、に参じ、尋で、同州淨慈報恩光孝寺に徙り、妙倫(断橋)、に参ず、
171
後深草
建長四年一月一四日
1252
幕府弓始、海野助氏、相手射手なきに依りて、射手を罷めらる、
175
後深草
建長四年四月一日
1252
宗尊親王、鎌倉に下向し、是日、相模片瀬に到る、小笠原長澄等、之を迎へ、随兵の列に加はる、
176
後深草
建長四年四月一四日
1252
将軍宗尊親王、始めて鶴岡八幡宮に参詣す、小笠原長澄父子等、之に随ふ、
176
後深草
建長四年七月一一日
1252
幕府、平林頼敏をして、埴科郡英多庄八郎丸名平林内桑井屋敷を安堵せしむ、
177
後深草
建長四年八月七日
1252
是より先、小井弖師能、弟宮熊と伊那郡春近領内小井弖・二吉両郷内の田堺につき争論す、是日、北條時頼、之を裁す、
178
後深草
建長四年一〇月
1252
十訓抄成る、その中に信濃に関する説話あり、
180
後深草
建長四年一一月一一日
1252
将軍宗尊親王、新第に移徙す、平賀惟時等、之に供奉す、
181
後深草
建長四年一一月二一日
1252
将軍家新第的始、信濃の人薩摩祐広等、射手を勤む、
182
後深草
建長四年一二月二六日
1252
幕府、中野西願の訴を斥け、弟同忠能をして高井郡中野西條並びに志久見郷等の地頭職を安堵せしむ、
183
後深草
建長四年一二月二八日
1252
幕府、中野正康をして、高井郡中野郷内の屋敷・田地及び志久見郷内の在家を安堵せしむ、
184
後深草
建長四年
1252
覚心(無本、心地房)天台山に上り、石橋に羅漢の応現を拝す、
185
後深草
建長五年一月三日
1253
将軍宗尊親王行始、諏訪盛経等、之に供奉す、
186
後深草
建長五年一月一四日
1253
幕府弓始、海野助氏等、射手を勤む、
187
後深草
建長五年一月一六日
1253
僧某、水内郡戸隠社の大般若経を書写す、
188
後深草
建長五年四月二六日
1253
善光寺の修造成り、是日、供養を行ふ、
189
後深草
建長五年九月二九日
1253
是より先,僧覚心(無本、心地房)明州大梅山に登り、法常の塔を拝し、更に杭州護国寺に同寺住持慧開(無門)に参ず、是日、覚心、慧開より印可を受け、対御録・袈裟を授けらる、
189
後深草
建長五年一〇月二一日
1253
藤原兼経、所領目録を注す、その中に伊那郡蕗原庄等信濃の庄園六箇所あり、
192
後深草
建長五年一一月二九日
1253
諏訪盛重、故北條泰時の菩提を弔はんがため、鎌倉山内に一堂を建立し、是日、追善供養を行ふ、
195
後深草
建長六年一月一六日
1254
幕府的始、海野助氏等、射手を勤む、
196
後深草
建長六年三月二八日
1254
是より先,僧覚心(無本、心地房)杭州護国寺住持慧開(無門)に告別帰国の意を表明す、是日、慧開、法語・自賛の頂相・月林和尚語録及び無門関を授けて伝法の証となす、
198