長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻四 (300頁~)
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後宇多
建治元年四月二七日
1275
北條実時、水内郡太田庄大倉・石村両郷等を藤原氏に譲る、某、北條実時の菩提を弔はんがため、太田庄石村郷を称名寺に寄進す、
300
後宇多
建治二年一二月一七日
1276
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同寺開基葛山景倫(願性)、遺付の鏡を同国浜宮社に納めて、その追薦に資す、
302
後宇多
建治三年四月五日
1277
薩摩入来院塔原郷地頭渋谷重経、子重員・頼重勘当の旨を北條時宗に披露せられんことを諏訪真性に請ふ、
304
後宇多
建治三年五月二二日
1277
北條義政、出家して鎌倉を出奔す、尋で、善光寺に参詣の後、小県郡塩田庄に籠居す、
306
後宇多
建治三年六月一三日
1277
将軍惟康親王、北条時宗に肥前・肥後安富庄地頭職を与へんとす、諏訪左衛門入道、下文持参の使者を時宗に取次ぐ、本年中、諏訪左衛門入道、北条時宗の家事にあたる、
307
後宇多
弘安元年二月八日
1278
藤原長忠、信濃権介に任ぜらる、
310
後宇多
弘安元年四月二一日
1278
平氏女、懸仏を安曇郡仁科神明に寄進す、
310
後宇多
弘安元年七月
1278
高梨朝定、亡母の菩提のために、碑を建つ、
310
後宇多
弘安元年九月七日
1278
是より先、中野忠能後家蓮阿、市河重房と、忠能の女釈阿の遺領高井郡中野郷堀内・町田並びに志久見郷湯山等につき争論す、是日、幕府、之を裁し、蓮阿をして之を領掌せしむ、
311
後宇多
弘安元年一〇月
1278
伊那郡殿岡の地頭四条頼基、佐渡に新知を給せらる、日蓮、書を送りて、之を祝す、閏十月廿二日、日蓮、頼経の銭三貫文並びに米酒等を贈れるを謝す、
317
後宇多
弘安二年
1279
尾張長母寺住持道暁(無住、一円房)、沙石集を選述す、その中に信濃に関する説話あり、
319
後宇多
弘安二年八月一五日
1279
小笠原光長、佐久郡落合新善光寺に銅鐘を寄進す、
325
後宇多
弘安二年
1279
智真(一遍)、佐久郡伴野庄に踊念仏を行ふ、
326
後宇多
弘安二年
1279
長野市最勝院の板碑成る、長野県に現存する板碑、
329
後宇多
弘安三年
1280
智真(一遍)、善光寺に詣づ、山内入道、善光寺如来の霊夢により智真に帰依す、
330
後宇多
弘安三年五月九日
1280
亀山上皇、京都新日吉社小五月会に臨み、流鏑馬を覧る、大井朝氏等、射手を勤む、
332
後宇多
弘安三年七月二三日
1280
幕府、信濃等諸国の地頭・御家人等に令して、石清水八幡宮放生会以前の殺生を停めしむ、
333
後宇多
弘安三年一〇月八日
1280
是より先、四條頼基、日蓮に米を贈る、是日、日蓮、書を贈りて之を謝す、
333
後宇多
弘安三年一〇月一五日
1280
東福寺住持圜爾、病篤きを以て、普門(無関、普門房、)をして、同寺住持たらしめんとす、普門、辞して摂津光雲寺に僑居す、尋で、同寺の主事者、普門をその住持に請ず、
334
後宇多
弘安三年
1280
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同国熊野妙法寺に登る、
336
後宇多
弘安三年
1280
祖円(規庵)、建長寺に、同寺住持祖元(無学、)に参ず、
338
後宇多
弘安三年
1280
僧覚勇、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)の行実縁起を撰す、
338
後宇多
弘安四年四月一六日
1281
嶋津久経、子久長に水内郡太田庄神代・津野両郷地頭職等を譲る、
339
後宇多
弘安四年六月六日
1281
信濃の人有坂弥二郎等、竹崎季長の元冦軍忠の評定に、証人となる、文永・弘安両役に、諏訪神霊験を現すと伝ふ、諏訪社に関する宴曲、
341
後宇多
弘安四年一一月二七日
1281
北條義政、小県郡塩田庄に卒す、
344
後宇多
弘安四年
1281
藤原実経、普門(無関、普門房)を東福寺住持となす、
347
後宇多
弘安四年
1281
亀山上皇、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)を招請して禅門を問ひ、山城勝林寺住持となす、また、後宇多天皇、同寺住持に請ず、覚心、固辞して就かず、尋で、重ねて請ずるも辞す、
348
後宇多
弘安五年一二月八日
1282
北条時宗、相模に円覚寺を開剏して、建長寺住持祖元(無学、)を開山に請ず、是日、祖元入院す、祖円、(規庵、)建長寺より之に随侍し来り、その会下に書狀侍者を掌る、
349
後宇多
弘安六年四月二三日
1283
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同寺景倫(願性)、追薦のために、同寺に宝塔を建つ、
350
後宇多
弘安六年一二月二九日
1283
知久敦幸、伊那郡文永寺に五輪塔及び石室を造立す、文永元年、僧隆毫、文永寺を創建し、尋で、永仁五年寂すと伝ふ、
351
後宇多
弘安七年七月二一日
1284
是より先、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、紀伊報恩寺の大殿を造営す、是日、覚心、その落慶供養を行ふ、
355
後宇多
弘安七年八月二日
1284
幕府、近国諸社の修理・祈祷・訴訟・所領寄進等の事を引付に沙汰せしむ、諏訪社上下社、四番引付に賦らる、幕府、諸国流罪の等次を定め、信濃国を中流と定む、幕府、信濃国御家人赤栖三郎入道の子女等の遺領争論を裁す、
356
後宇多
弘安七年八月三日
1284
是より先、興福寺造営料国信濃国目代定尭、検注物並びに年貢等を違乱す、是日、興福寺、定尭を改易し、新目代補任まで、年貢等を失墜せしめざらんことを、同国在庁官人等に触る、
358
後宇多
弘安七年九月九日
1284
北條時宗、相模円覚寺をして、正観寺上畠等の地を安堵せしむ、諏訪真性等、この旨を奉ず、
360
後宇多
弘安七年一二月二六日
1284
嶋津某、水内郡太田庄内大倉・石村両郷の検注居合請料及び除田の勘料銭を請取る、
360
後宇多
弘安八年三月六日
1285
藤原定藤、信濃権守に任ぜらる、
361
後宇多
弘安八年七月三日
1285
幕府、嶋津久長をして、水内郡太田庄内神代・津野両郷等の地頭職を安堵せしむ、
362
後宇多
弘安八年一〇月二〇日
1285
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、弟子覚円の請に応じて頂相に自賛を加ふ、この後、覚心、その頂相に賛語を加ふ、
363
後宇多
弘安八年一一月一七日
1285
信濃の人伴野長泰、安達泰盛の謀叛に与し、誅せらる、
364
後宇多
弘安八年
1285
内大臣藤原師継、山城鳴滝の別業を禅寺となし、妙光寺と号し、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)を請じて開山となす、覚心、妙光寺の徒弟の請により上洛し、藤原師信の奏請により、亀山の離宮に後宇多天皇に謁して、禅要を奏対す、
367
後宇多
弘安八年
1285
妙意(慈雲)、越後五智山に出家して、具足戒を受く、
370
後宇多
弘安九年四月一八日
1286
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、予め安骨の石櫃を造り、内に銅筒を置き、之に銘を書す、
371
後宇多
弘安九年九月三日
1286
建長寺住持祖元(無学)、寂す、仍つて、その会下にありし祖円(規庵)、上洛し、東福寺に同寺住持普門(無関)、に参じ、その会下に焼香侍者・蔵主を掌る、
372
後宇多
弘安九年一二月一六日
1286
信濃の僧相模建長寺住持道然(葦航)、同寺正続院年分打給の規式を定む、
373
後宇多
弘安九年一二月二二日
1286
尼妙法、安曇郡仁科神明に懸仏を寄進す、同郡神城村神明宮ノ懸仏
374
伏見
弘安一〇年一二月二一日
1287
是より先、信濃守藤原親世、大和春日社造営を勤む、是日、同社遷宮あり、
376
伏見
正応元年四月七日
1288
安倍雅遠、信濃守に任ぜらる、
378
伏見
正応元年五月一六日
1288
信濃国司、鈎匙を給ひ、不動倉を開検せんことを奏請す、
378
伏見
正応元年五月
1288
伊那郡鳩ヶ嶺八幡宮の神像成る、
379
伏見
正応元年一一月三日
1288
是より先、小井弖道覚、同盛綱の伊那郡小井弓・二吉両郷河成加增分の年貢課役を對捍するを北條貞時に訴ふ、是日、貞時、道覚の訴を斥け、盛綱をして旧例に随ひて、弁済せしむ、
380
伏見
正応元年一二月五日
1288
深澤有経、佐久郡平賀郷内滑瀬村内の地等を、子信経に譲る、
382
伏見
正応元年
1288
妙意(慈雲)、建長・円覚両寺を往来して参禅す、
383
伏見
正応二年一月一三日
1289
藤原雅任、信濃守に任ぜらる、
384
伏見
正応二年七月二七日
1289
紀淑氏の母円覚尼、その母平氏の十三回忌追善のために、紀伊国報恩寺に五部大乗経を書写し、その読誦供養を行ふ、是日、同国西方寺住持覚心(無本、心地房)を請じて慶賛説法せしむ、
385
伏見
正応三年五月一二日
1290
是より先、嶋津久長、越後彦三郎政国と水内郡太田庄内神代郷地頭職を争ふ、是日、幕府、之を裁し、政国の訴を斥け、久長をして之を安堵せしむ、
385
伏見
正応三年五月一四日
1290
幕府、屋代乙王をして、埴科郡倉科庄東條内の地を安堵せしむ、
387
伏見
正応三年五月二三日
1290
下伊那郡大下條村早稲田神社の鰐口成る、
388
伏見
正応三年一一月一七日
1290
是より先、中野泰重、同仲能・小田切実道等と、高井郡中野郷堀内・町田及び志久見郷湯山を争ふ、是日、幕府、泰重の訴を斥け、仲能等をして之を知行せしむ、
388
伏見
正応四年三月一九日
1291
隕石、紀伊西方寺の東南の山中に落つ、時人之を同寺住持覚心(無本、心地房)説法の瑞応と為し、紀淑文、雨珠記を撰してその始末を記す、
392
伏見
正応四年三月二五日
1291
藤井真里、信濃目に任ぜらる、
395