長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻四 (400頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
伏見
正応四年
1291
是より先、亀山法皇の東山離宮(松下殿)に妖怪の変しばしば起る、是春、法皇、東福寺住持普門(無関、普門房)を請じて、結制安居せしむるに、怪事庵息す、仍つて、法皇、深く禅門に帰し、同離宮を捨てて禅苑となし、龍安山禅林寺(瑞龍山太平興国南禅寺)と号し、普門を請じて、開山となし、また、普門より受衣して、師資の礼を執る、
395
伏見
正応四年一二月一二日
1291
禅林寺(南禅寺)開山普門(無関、普門房)、寂す、法嗣信濃の僧玄提玉山、の事蹟、
400
伏見
正応四年一二月
1291
亀山上皇、禅林寺(南禅寺)、開山普門(無関)の推挙に依り、祖円(規庵)を同寺住持として、その席を継がしむ、尋で、祖円、入院す、
415
伏見
正応五年四月五日
1292
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同国粉河寺誓度院の規式を定む、覚心、粉河寺に誓度院を開剏す、
420
伏見
正応五年四月八日
1292
上野松井田の一結衆十二人、佐久郡今熊野社に銅鐘を寄進す、
423
伏見
正応五年四月一二日
1292
是より先、嶋津忠時女子尼忍覚、甥同久長と水内郡太田庄神代郷内腰中村田在家のことを争論す、是日、幕府、之を裁し、久長をして之を知行せしむ、
424
伏見
正応五年閏六月二日
1292
宋僧円空、大般若経を書写して、筑摩郡浅間社に納む、この後、円空、大般若経を書写して、浅間社に納む、
426
伏見
正応五年一二月八日
1292
亀山法皇、禅林寺開山普門(無関、普門房)の一周忌に当り、その頂相に賛を加ふ、
428
伏見
正応五年
1292
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)紀淑文の画像に賛す、
428
伏見
永仁元年一一月
1293
南禅寺住持祖円(規庵)、同寺仏殿梁牌に銘す、
429
伏見
永仁元年一二月一二日
1293
東福寺、その前住普門(無関、普門房)の三回忌仏事を行ひ、同寺住持慧暁(白雲)をして陞座・拈香・頂相の点眼の諸仏事を勤修せしむ、
430
伏見
永仁元年
1293
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)の徒弟等、覚心の寿像を造顕す、
433
伏見
永仁二年三月二七日
1234
源長通、信濃介に任ぜらる、
434
伏見
永仁二年五月八日
1294
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、後鳥羽天皇の神霊より、水無瀬宮の中に大興寺を建立し、その開山となるべき旨の託宣を受く、
434
伏見
永仁二年八月四日
1294
小笠原長政卒す、
436
伏見
永仁二年九月一八日
1294
僧良栄、水内郡戸隠社の大般若経を書写す、
438
伏見
永仁二年一〇月一八日
1294
僧観海、諏訪社上社神宮寺の釈迦三尊像を造立し、是日、供養を行ふ、
438
伏見
永仁二年一〇月二七日
1294
幕府、深澤信経をして、佐久郡平賀郷内滑瀬内田屋敷等を安堵せしむ、
439
伏見
永仁二年一一月一一日
1294
伊賀頼泰、筑摩郡麻績御厨内矢倉村等を、子光貞に譲る、尋で、幕府、光貞をして之を安堵せしむ、
440
伏見
永仁二年
1294
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、その受業の師行勇(退耕、荘厳房)の牌を同寺祖堂に納む、
441
伏見
永仁三年三月二五日
1295
是より先、水内郡太田庄雑掌道念、領家年貢の収納を、絹を以てせんことを求めて、同庄大倉・石村両郷地頭代能信と争論す、是日、和与を以て元の如く銭納に定む、尋で、幕府、之を裁許す、大倉・石村両郷の永仁沙汰具書注文、
442
伏見
永仁三年三月二九日
1295
山内時通、筑摩郡下平田郷内公田地頭職等を、子通綱・通氏等に譲る、
444
伏見
永仁三年七月二九日
1295
是より先、大工宗仲、嶋津久長と水内郡太田庄内津野郷のことを争論す、是日、幕府、宗仲の訴を斥け、久長をして之を安堵せしむ、
446
伏見
永仁三年一〇月一二日
1295
僧宗昭(覚如)、更級郡康楽寺の僧淨賀と共に、親鸞上人絵伝を著す、
448
伏見
永仁三年一〇月一三日
1295
幕府、望月重直をして、小県郡海野庄賀沢村田在家を安堵せしむ、
450
伏見
永仁四年三月一一日
1296
尼道しやう、小県郡海野庄三文條今井村内田在家地頭職を、甥望月重直に譲る、
451
伏見
永仁四年一〇月二六日
1296
藤原時盛、筑摩郡福満寺に、般若心経等を読誦せしむ、
452
伏見
永仁四年
1296
妙意(慈雲)、越中の関野に到りて庵居す、
453
伏見
永仁五年五月二日
1297
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同寺に寿塔思遠庵を営む、是日、その卵塔上棟す、
454
伏見
永仁五年六月一八日
1297
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同国護国寺を開剏す、是日、覚心、落慶供養を行ふ、
455
伏見
永仁五年九月二日
1297
知久敦幸、諏訪社上社神宮寺に銅鐘を寄進す、
456
伏見
永仁五年
1297
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同国粉河寺大門慶賛供養の導師を勤む、
457
伏見
永仁五年
1297
妙意(慈雲)、覚明(孤峯)に見え、その誘導に依りて、紀伊西方寺に至り、覚心(無本、心地房)に参ず、
457
伏見
永仁六年四月一一日
1298
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、病む、
459
伏見
永仁六年四月二四日
1298
紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)、同寺規式を定む、
459
伏見
永仁六年六月三日
1298
藤原氏女、筑摩郡麻績御厨大吉原郷田在家等を養子かくふんに譲る、
460
後伏見
永仁六年八月二日
1298
宮某、山城高山寺をして、同国仁和寺領更級郡四宮勅旨・無量寿院領木曽小技曽両庄を安堵せしむ、
461
後伏見
永仁六年九月三日
1298
是より先、伊達念性女子尼妙海、嶋津久長と水内郡太田庄神代郷内中尾村のことを争論す、是日、幕府、妙海の訴を斥け、久長をして之を安堵せしむ、
462
後伏見
永仁六年九月一〇日
1298
僧行祐(円琳坊)、水内郡戸隠社の観音菩薩坐像を造立す、
464
後伏見
永仁六年一〇月一三日
1298
紀伊西方寺(興国寺)、山城妙光寺開山覚心(無本、心地房)、寂す、
465
後伏見
永仁六年一二月三日
1298
紀伊西方寺、同寺開山覚心(無本、心地房)の舎利及び遺骨の一部を同国粉河寺誓度院に納む、
479
後伏見
正安元年三月一六日
1299
僧明円(禅実房)、僧善豪(教釈房)、の勧進により、水内郡戸隠社の大般若経を書写す、この後、善豪等、戸隠社大般若経の書写を勧進す、
480
後伏見
正安元年一〇月一〇日
1299
善光寺塔供養行はる、永仁四年十一月十一日、慈阿弥陀仏・願阿弥陀仏、善光寺阿弥陀如来立像○両脇侍欠くを摸刻す、善光寺阿弥陀如来の詠と伝ふる和歌、
487
後伏見
正安元年
1299
妙意(慈雲)、覚明(孤峯)の指示に依り、越中二上山の旧隠に東松寺(国泰寺)、を開剏す、
488
後伏見
正安二年三月三日
1300
幕府、中野幸重をして、論所高井郡中野郷西條内の田地並びにその押領得分を、市河盛房に糺返せしむ、
489
後伏見
正安二年五月一五日
1300
金刺満貞、建長寺住持一寧(一山)に参禅し、諏訪郡に慈雲寺を開創す、是日、一寧を請じて開山となす、信濃人の参禅、
491
後伏見
正安二年一一月八日
1300
幕府、奥春近領高井郡志久見郷を地頭請所となし、請料を段別銭二百文と定む、
498
後二条
正安三年四月一〇日
1301
幕府、藤原秀信をして、小県郡国分寺南条内の田在家を安堵せしむ、
499