長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻四 (200頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後深草建長六年六月1254僧覚心(無本、心地房)宋より帰朝し、高野山禅定院に同院住持行勇(退耕、荘厳房)を省覲す、行勇、之を同院の首座となす、200
後深草建長六年一一月五日1254幕府、滋野経氏をして、小県郡海野庄加納田中郷地頭職を安堵せしむ、203
後深草建長六年一二月一二日1254幕府、中野能成の女藤原氏をして、高井郡中野西條内田在家を安堵せしむ、204
後深草建長七年二月一三日1255源通教、信濃介に任ぜらる、206
後深草康元元年一月五日1256将軍宗尊親王御行始、諏訪盛時等、之に参仕す、206
後深草康元元年一月一三日1256幕府的始、藤沢時親等、射手を勤む、207
後深草康元元年二月一三日1256高野山禅定院首座覚心(無本、心地房)杭州護国寺住持慧開(無門)に書信を通ず、尋で、慧開より返信を受く、209
後深草康元元年七月一七日1256将軍宗尊親王相模最明寺に参詣す、小笠原時直等、随兵を勤む、211
後深草正嘉元年一〇月一日1257相模大慈寺の修理成り、是日、供養を行ふ、将軍宗尊親王、之に臨む、小笠原行長等、随兵を勤む、212
後深草正嘉元年1257覚心(無本、心地房)高野山禅定院住持となり、嗣香を慧開(無門)に焼きて、嗣法の意を表明す、尋で、覚心、嗣書を慧開に通じ、慧開、法衣・宗派図等を贈りて、伝法の証となす、213
後深草正嘉二年一月六日1258諏訪盛重、的始の射手の選定にあたり、信濃の人知久信貞を推す、尋で、幕府的始あり、信貞等、射手を勤む、217
後深草正嘉二年一月二〇日1258佐久郡釈尊寺観音堂成る、219
後深草正嘉二年二月三〇日1258源泰清、信濃守に任ぜらる、藤原教房、さきに信濃守たる、220
後深草正嘉二年六月四日1258将軍宗尊親王、相模勝長寿院供養に臨む、小笠原時直等、随兵を勤む、221
後深草正嘉二年八月一五日1258将軍宗尊親王、鶴岡八幡宮放生会に臨む、小笠原政直等、随兵を勤む、222
後深草正嘉二年九月二日1258是より先、諏訪刑部左衛門入道、伊具四郎入道殺害の疑に依りて捕へらる、是日、幕府、刑部左衛門入道の白状を得て、之を梟首す、223
後深草正嘉二年1258覚心(無本、心地房)高野山禅定院を退院し、紀伊由良に赴き、葛山景倫(願性)の請によりて、同地に鷲峰山西方寺を開剏す、226
亀山文応元年一月一四日1260幕府弓始、藤沢光朝等、射手を勤む、228
亀山文応元年三月二九日1260源通頼、信濃権守に、同具守、信濃介に任ぜらる、230
亀山文応元年一二月1260信濃の僧性円(慧静房)、大和戒壇院円照より、受戒す、230
亀山弘長元年一月一日1261幕府垸飯、諏訪盛頼等、之に参仕す、231
亀山弘長元年一月七日1261僧租円(規庵)水内郡長池に生る、231
亀山弘長元年一月一四日1261幕府的始、望月師重等、射手を勤む、232
亀山弘長元年六月二二日1261故三浦義村の子僧良賢等、謀叛の企あり、諏訪盛重等、良賢を鎌倉亀谷に捕ふ、233
亀山弘長元年八月一五日1261将軍宗尊親王、鶴岡八幡宮放生会に臨む、小笠原時直等、随兵を勤む、234
亀山弘長元年一一月三日1261前信濃守護北條重時卒す、235
亀山弘長元年1261普門(無関)、杭州淨慈報恩光孝寺住持妙倫(断橋)、より、法衣・頂相を受く、237
亀山弘長二年1262覚心(無本、心地房)紀伊浜宮八幡宮に利生方便の成就を祈る、239
亀山弘長二年1262普門(無関)、宋より帰朝して、薩摩にあり、239
亀山弘長三年一月一日1263幕府垸飯、諏訪盛頼等、之に参仕す、240
亀山弘長三年一月一二日1263幕府的始、松岡時家等、射手を勤む、240
亀山弘長三年三月一七日1263是より先、北條時頼、水内郡深田郷の地を買得し、是日、之を善光寺に寄進し、不断経衆及び不断念仏衆の粮料に充てしむ、241
亀山弘長三年一一月二二日1263北條時頼、臨終にあたり、諏訪蓮仏の極楽住生を引導せんことを契る、244
亀山文永元年一月一日1264覚心(無本、心地房)紀伊西方寺に愛染法及び五大尊法を修して、同寺の妖魔を祈禳す、245
亀山文永元年五月二日1264信濃の僧観実房、大和戒壇院円照より受戒す、信濃の僧性憲・頼円、円照より受戒す、248
亀山文永元年八月九日1264紀伊西方寺開基葛山景倫(願性)、同寺及び同寺領を開山覚心(無本、心地房)に付す、尋で、景倫、同寺の規式・造寺縁起等を制す、249
亀山文永元年一一月三日1264小笠原長忠卒す、251
亀山文永元年1264普門(無関)、東福寺に圜爾を省覲し、尋で、寿福寺に朗誉(蔵叟、非願房)に拠り、また、越後に赴きて安楽寺に住す、253
亀山文永二年一月一二日1265幕府弓始、海野泰信等、射手を勤む、254
亀山文永二年五月二五日1265是より先、中野為泰、父忠能の遺領高井郡中野・志久見両郷地頭職を姉袈裟御前等と争ふ、是日、幕府、之を裁し、為泰の訴を斥け、袈裟御前をして、之を安堵せしむ、254
亀山文永二年九月二六日1265藤原資兼、更級郡藤長御厨年貢未進の代として、伊勢継橋郷内の地を豊受大神宮に寄進す、261
亀山文永二年一一月二〇日1265是より先、幕府、奉行人を置き、善光寺警固に充つ、是日、幕府、奉行人の違乱を停め、併せて、信濃守護北條義宗に之を触る、262
亀山文永三年一月一一日1266幕府弓始、海野泰信等、射手を勤む、264
亀山文永三年六月一九日1266是より先、木工権頭親家、京都より鎌倉に帰り、後嵯峨上皇の諷詞を幕府に告ぐ、仍りて、是日、幕府、諏訪盛経を使者として、京都に上らしむ、264
亀山文永三年1266覚心(無本、心地房)、信濃に帰り、母を省す、尋で、覚心、母を伴ひて紀伊に赴き、熊野に詣で、母を出家せしめて、紀伊由良修禅寺に居らしむ、265
亀山文永四年二月一日1267藤原季顕、信濃権介に任ぜらる、267
亀山文永四年三月二七日1267後嵯峨上皇、石清水八幡宮寺領更級郡小谷庄に造伊勢大神宮役夫工米の徴収を免ず、267
亀山文永四年四月一一日1267覚心(無本、心地房)、の母尼妙智寂す、紀伊西方寺興国寺、の東南に宝篋印塔を建てて之を葬る、268
亀山文永四年五月一三日1267亀山天皇、石清水八幡宮寺領更級郡小谷庄に、造豊受大神宮役夫工米の徴収を免ず、271
亀山文永四年一二月三日1267嶋津忠時、水内郡太田庄等の所領を妻子等に譲る、271
亀山文永五年三月一四日1268善光寺焼く、274
亀山文永五年一二月二六日1268信濃の僧戒円房、大和戒壇院円照より受戒す、明日、寂す、275
亀山文永五年1268相模寿福寺覚心、(無本、心地房)を同寺住持に請ず、覚心、固辞して、就かず、276
亀山文永六年六月一四日1269祇園御霊会、神人等闘諍す、信濃の人某、少将井社の神輿を射る、276
亀山文永六年一一月一二日1269信濃の僧観勇寂す、277
亀山文永八年1271智真(一遍)、善光寺に参籠す、277
亀山文永八年五月1271笠原信親、某と争論す、是日、信親、幕府に証文目録を提出す、280
亀山文永八年九月一二日1271日蓮、相模龍口に斬られんとするに臨み、旨を伊那郡殿岡の地頭四條頼基に報ぜんとす、282
亀山文永八年一〇月一九日1271善光寺堂供養あり、鶴岡八幡宮寺社務隆弁、その導師を勤む、283
亀山文永八年一二月二二日1271幕府、平林親継をして、埴科郡英多庄八郎丸内平林屋敷内桑井傔仗屋敷等を安堵せしむ、284
亀山文永九年一月一六日1272信濃・越後・佐渡等の僧俗、佐渡塚原に日蓮を誹謗し、却って、その説法に服して帰依す、286
亀山文永九年七月一〇日1272源通雄、信濃権介に任ぜらる、287
亀山文永九年八月一八日1272尼寂阿弥陀仏、(袈裟)、高井郡志久見郷下条平林地頭職併びに中野西條内屋敷等を、子市河盛房(薬王)に譲る、287
亀山文永九年1272信濃の僧祖円(規庵)、紀伊西方寺住持覚心(無本、心地房)の会下にありて、首座となり、省悟するところあり、288
後宇多文永一一年二月二〇日1274藤原為雄、信濃介に、藤原実時、信濃権介に任ぜらる、290
後宇多文永一一年三月二〇日1274幕府、市河盛房をして、高井郡中野郷西條内屋敷・筥山並びに志久見郷下條平林地頭職を安堵せしむ、290
後宇多文永一一年三月二六日1274日蓮、幕府の赦免に遇ひて、佐渡の配所を出で、信濃を過ぎ、是日、鎌倉に到る、292
後宇多文永一一年六月一五日1274是より先、中野仲能、市河盛房の高井郡志久見郷南北境を違乱するを幕府に訴ふ、是日、幕府、盛房に陳状の提示を命ず、尋で、仲能、重ねて訴状を捧ぐ、293
後宇多文永一一年1274信濃の僧妙意(慈雲)生る、296
後宇多建治元年三月1275智真(一遍)、覚心(無本、心地房)に参禅す、淨阿、覚心に参ず、297