長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻五 (100頁~)
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後醍醐
元徳二年一二月一〇日
1330
重阿、水内郡今溝庄北条内の地を、その女神氏に譲る、尋で、幕府、神氏をして、之を安堵せしむ、
109
後醍醐
元徳二年一月一三日
1330
三条実治、信濃権守に任ぜらる、
111
後醍醐
元徳二年二月一三日
1330
塩田国時、明年諏訪社上社七月頭役勤仕のため、所領小県郡塩田庄に赴くにあたり、金沢貞顕を訪ふ、 諏訪社御射山頭役勤仕並びに同社に関する記事、 御射山に関する金刺盛久の和歌、
111
後醍醐
元徳二年二月一五日
1330
花園上皇、山城大徳寺に、佐久郡判野庄等を寄進す、
114
後醍醐
元徳二年三月一八日
1330
山内通資、所領筑摩郡下平田郷地頭職等を、子通時に譲る、
115
後醍醐
元徳二年四月九日
1330
是より先、幕府、友梅雪村、を諏訪郡慈雲寺住持となす、是日、友梅、入院す、
117
後醍醐
元徳二年五月
1330
大徳寺住持妙超、宗峯、慧玄関山、を印可す、
131
後醍醐
元徳二年九月七日
1330
建長寺住持楚俊、明極、至遠孤山、の請に応じて、その師覚心無本、心地房、の頂相〓跳頂相、に讃を加ふ、尋で、後醍醐天皇、同像を拝して、覚心に法燈円明国師の号を授く、
132
後醍醐
元徳二年一〇月一三日
1330
紀伊西方寺興国寺、開山覚心無本、心地房、三十三年忌、建長寺住持楚俊、明極、門弟至一の請に応じて、陞座説法す、
138
後醍醐
元徳二年一一月五日
1330
諏訪郡慈雲寺住持友梅、雪村、上堂して、同門友桂月山、の、頭首として、同寺に冬秉拂を勤むるを謝す、
144
後醍醐
元徳二年一一月九日
1330
金刺満貞卒す、
144
後醍醐
元弘元年一月一日
1331
諏訪郡慈雲寺住持友梅、雪村、元旦により、上堂説法す、
147
後醍醐
元弘元年一月一五日
1331
諏訪郡慈雲寺住持友梅、雪村、上元の節により、上堂説法す、
147
後醍醐
元弘元年二月一五日
1331
諏訪郡慈雲寺住持友梅、雪村、仏涅槃日により、上堂説法す、
148
後醍醐
元弘元年四月九日
1331
諏訪郡慈雲寺住持友梅、雪村、同寺を退院す、尋で、再住す、
148
後醍醐
元弘元年七月二日
1331
花園上皇、山城大徳寺をして、同寺領佐久郡伴野庄等の知行を全うせしむ、
149
後醍醐
元弘元年七月二六日
1331
是より先、日野俊基等、後醍醐天皇の討幕の議に与し、事露はれて六波羅探題に捕へらる、是日、俊基、鎌倉に送られ、諏訪某に預けらる、
150
後醍醐
元弘元年八月九日
1331
島津貞久、子宗久に水内郡太田庄内南郷地頭職等を譲る、尋で、幕府、宗久をして、之を安堵せしむ、
151
後醍醐 光厳
元弘元年
1331
諏訪為頼、筑摩郡徳雲寺を開剏し、諏訪郡慈雲寺住持友梅雪村、を開山に請ず、友梅、慈雲寺を退院して、その請に応ず、
154
後醍醐 光厳
元弘元年一〇月一五日
1331
北条氏の軍、諸道より、楠木正成を河内赤坂城に攻む、小笠原貞宗・諏訪祝等、大和道の軍に、信濃軍勢、天王寺大路の軍に加はる、
155
後醍醐 光厳
元弘元年
1331
護良親王、大和般若寺を出でて紀伊熊野に向ふ、村上義光等、之に供奉す、
161
後醍醐 光厳
元弘元年
1331
某、武蔵称名寺領水内郡太田庄大倉郷内名田を同寺に注進す、 称名寺領水内郡太田庄石村・大倉両郷の年貢・領知に関する史料にして年次未詳なるもの、
162
後醍醐 光厳
南朝元弘二年一月一一日
1332
諏訪時継、筑摩郡吉田・赤木両郷を諏訪社上社に寄進す、
171
後醍醐 光厳
南朝元弘二年二月二日
1332
筑摩郡福満寺、日光菩薩像の造立を始む、尋で、月光菩薩像の造立を始む、
172
後醍醐 光厳
南朝元弘二年二月一六日
1332
金沢貞将、水内郡太田庄石村郷等の地を、武蔵称名寺に寄進す、
172
後醍醐 光厳
南朝元弘二年三月一二日
1332
平宗経、信濃権守に任ぜらる、
173
後醍醐 光厳
南朝元弘二年四月五日
1332
諏訪時継、神長守矢真頼に御柱迎の装束のことを問ふ、
173
後醍醐 光厳
南朝元弘二年四月
1332
護良親王、紀伊熊野を出でて大和に赴く、村上義光等、之に随ひ、途中殊功を顕す、
174
後醍醐 光厳
南朝元弘二年九月二〇日
1332
是より先、京方の軍、畿内・西国に蜂起す、北条高時、小笠原貞宗等諸将をして之を討たしむ、是日、貞宗等、鎌倉を発す、
177
後醍醐 光厳
南朝元弘二年一二月二三日
1332
是より先、市河助房、中野幸重後家円阿と高井郡中野西条内田地得分物につき争論す、是日、幕府、円阿をして、論物を助房に弁済せしめ、併せて、円阿の所領三分一を召上ぐ、
178
後醍醐 光厳
南朝元弘二年一二月二七日
1332
是より先、市河助房、中野幸重後家円阿の、高井郡志久見郷内石橋・壷山・細越三箇村春近年貢を抑留するを幕府に訴ふ、是日、幕府、円阿をして違乱を停め、抑留分二倍を助房に弁済せしむ、
180
後醍醐 光厳
南朝元弘二年
1332
筑摩郡徳雲寺住持友梅、雪村、同寺を退院し、小串範秀の請に応じて上洛し、山城西禅寺住持となる、
182
後醍醐 光厳
南朝元弘三年閏二月一日
1333
吉野城落つ、村上義光、子義隆と共に、身をもつて護良親王を救ふ、
183
後醍醐 光厳
南朝元弘三年三月一日
1333
諏訪盛高、道通大川、をして金剛経を書写せしむ、
188
後醍醐 光厳
南朝元弘三年四月二七日
1333
是より先、足利高氏、後醍醐天皇の命に依り、天皇の軍に参ず、是日、高氏、小笠原宗長に合力を求む、尋で、また之を求む、
189
後醍醐 光厳
南朝元弘三年五月二日
1333
足利高氏の子千寿、鎌倉を出奔す、尋で竹若伊豆山より上洛せんとして、諏訪真性等のために、浮島原に討たる、
190
後醍醐 光厳
南朝元弘三年五月八日
1333
高井郡中野郷並びに湯山郷等一分地頭中野定心の子家平、京都合戦に、足利高氏の軍に参ず、
191
後醍醐 光厳
南朝元弘三年五月八日
1333
新田義貞、兵を上野に起し、鎌倉に向はんとす、信濃の諸士、多く之に応ず、
192
後醍醐 光厳
南朝元弘三年五月一四日
1333
幕府、北条泰家をして、武蔵関戸に新田義貞の軍を禦がしむ、塩田国時等、之に随ふ、
194
後醍醐
元弘三年五月一八日
1333
新田義貞の軍、鎌倉に迫る、幕府、信濃等の兵をして、鎌倉極楽寺切通等に、之を禦がしむ、尋で、信濃の人布施資平、義貞の軍に属し、鎌倉巨福呂坂に戦ふ、
195
後醍醐
元弘三年五月二二日
1333
幕府の軍敗れ、北条高時、鎌倉東勝寺に自害す、諏訪真性等、之に殉ず、
197