長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻五 (300頁~)
1頁~
100頁~
200頁~
300頁~
400頁~
500頁~
「信濃史料」巻別収録年代に戻る
・ 綱文(記事)をクリックすると、綱文とその出典を掲載した画面が表示されます。
天皇
年月日
西暦
記事
頁
後醍醐
建武二年一〇月二三日
1335
後醍醐天皇、花園上皇の、院領を光厳上皇に譲与するにあたり、大徳寺をして、同寺領佐久郡伴野庄領家職を安堵せしむ、尋で、光厳上皇、また之を安堵せしむ、
301
後醍醐
建武二年一一月九日
1335
足利尊氏、村上信貞をして、後醍醐天皇の綸旨に任せ、更級郡四宮庄内北条地頭職を、諏訪頼貞に渡付せしむ、
302
後醍醐
建武二年一一月一〇日
1335
足利直義、信濃の人市村八郎左衛門入道跡の地を、勲功の賞として畠山貞康に宛行ふ、
303
後醍醐
建武二年一一月一九日
1335
是より先、足利尊氏、鎌倉に叛す、是日、後醍醐天皇、東海・東山両道に軍を発して之を討たしむ、小笠原貞宗等、東海道の軍に加はる、
303
後醍醐
建武二年一一月二五日
1335
新田義貞、足利直義の軍を三河鷺坂に破る、仁科某等、義貞の軍に属して戦ふ、 足利尊氏、直義の敗戦に落胆し、削髪して建長寺に入らんとす、直義等、謀りて、小笠原一族等宛の勅勘の綸旨を作り、尊氏の奮起を促すと伝ふ、
305
後醍醐
建武二年一一月二八日
1335
是より先、足利直義、新田義貞を討たんがため、檄を諸国に発して、将兵を招集す、是日、市河親宗、之に応じて、直義の党小笠原貞宗の軍に馳参ず、
307
後醍醐
建武二年一二月一一日
1335
村上信貞、足利直義の軍に属して、新田義貞の軍を相模竹の下に破る、直義、その功を賞して小県郡塩田庄を信貞に与ふと伝ふ、
308
後醍醐
建武二年一二月一四日
1335
小笠原貞宗等、遠江今井見付に、西走の新田義貞の軍を阻まんとして敗る、
309
後醍醐
建武二年一二月一七日
1335
越後の人村山隆義、信濃に兵を進むるにあたり、その所領の処分のことを定む、
310
後醍醐
建武二年一一月二三日
1335
是より先、後醍醐天皇、軍を東海・東山両道に発して鎌倉に進め、足利尊氏・同直義を討たしむ、是日、伊予の人忽那重清等、東山道軍に属し、佐久郡大井庄に至りて、尊氏等の党小笠原貞宗・村上信貞等と戦ふ、
311
後醍醐
南朝延元元年一月一日
1336
小笠原貞宗、甲斐守護武田政義と共に諏訪郡に入り、諏訪社上社大祝藤沢政頼を逐ひ、諏訪頼嗣を大祝とす、
314
後醍醐
南朝延元元年一月一〇日
1336
足利尊氏の軍、京都に迫るに依り、後醍醐天皇、近江東坂本に赴く、信濃の人勅使河原直重父子、之を聞きて、山城鳥羽作路羅城門に自害す、
316
後醍醐
南朝延元元年一月一三日
1336
村上信貞、市河経助・同助泰等を率ゐて、埴科郡英多庄清滝城を攻む、尋で、また之を攻む、
317
後醍醐
南朝延元元年一月一六日
1336
足利尊氏の将細川定禅、近江園城寺に拠る、信濃の人畑時能等、北畠顕家・新田義貞等の軍に属して奮戦し、之を陥る、
319
後醍醐
南朝延元元年一月二〇日
1336
信濃国司堀河光継、洞院実世等と共に近江坂本の後醍醐天皇の陣に到る、仁科盛宗・高梨義繁等信濃の士、多く之に随ふ、
321
後醍醐
南朝延元元年一月二三日
1336
是より先、信濃の人香坂心覚等、牧城に拠りて兵を挙ぐ、是日、村上信貞、市河経助等を率ゐて之を攻む、
322
後醍醐
南朝延元元年二月一五日
1336
是より先、北条高時の残党同時興、信濃の人深志介知光寺等と兵を挙ぐ、是日、小笠原貞宗・村上信貞等、市河経助等を率ゐて、筑摩郡麻続十日市場に之と戦ふ、
324
後醍醐
南朝延元元年四月一五日
1336
信濃の僧妙在、此山、潭州崇勝院石霜山、にあつて秉払を勤む、
327
後醍醐
南朝延元元年四月
1336
武者所の結番を定む、仁科盛宗・高梨義繁等、二番に加へらる、
329
後醍醐
南朝延元元年五月一九日
1336
是より先、後醍醐天皇の軍、足利尊氏の軍と摂津湊河に戦ひて敗る、是日、再び近江東坂本に赴く、信濃国司堀河光継・仁科氏重等、之に供奉す、
330
後醍醐
南朝延元元年六月五日
1336
足利直義、近江東坂本に、後醍醐天皇の軍を攻む、仁科氏重等、防戦す、
331
後醍醐
南朝延元元年六月二六日
1336
村上信貞・高梨経頼並びに小笠原経義等、重ねて、市河経助・高梨時綱等を率ゐて、香坂心覚等を、牧城に攻む、
332
後醍醐
南朝延元元年七月四日
1336
是より先、足利直義、近江延暦寺に、新田義貞の軍を破る、小笠原貞宗、直義を援けんとして、近江に到る、足利直義、貞宗に令して同国内の義貞の与党を討たしむ、尋で、貞宗、同国野路原・鏡・伊吹・太平寺等に敵を破り、京都に入る、
334
後醍醐
南朝延元元年八月五日
1336
幕府、望月重直の女神氏姫夜叉、をして、所領小県郡海野庄鞍懸条賀沢村内田在家を安堵せしむ、
341
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年八月二五日
1336
足利尊氏、小笠原貞宗をして、近江東坂本に赴き、敗走せんとする新田義貞の軍を討たしむ、
343
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年八月
1336
智明、蒙山、その師祖円規庵、の行状を撰し、南禅寺住持正澄、清拙、之に跋す、
344
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年一〇月一〇日
1336
後醍醐天皇、近江延暦寺より京都に還る、仁科重貞等、之に供奉す、
345
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年一〇月一二日
1336
足利尊氏、新田義貞北国に赴くと聞き、信濃守護代小笠原兼経の弟同経義等をして、之を追討せしむ、市河親宗、経義に属して、同国府中・仁科千国口に発向す、
346
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年一〇月一五日
1336
上杉兵庫助等、牧城に楯篭る、是日、高梨時綱等、山田要害に之を攻む、
347
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年一〇月二五日
1336
光厳上皇、山城大徳寺をして、同寺領佐久郡伴野庄を安堵せしむ、
348
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年一一月三日
1336
村上信貞、市河親宗・同経助等を率ゐて越後に攻入り、同国守護・目代等の軍を討つ、是日、親宗・経助等、軍忠状等に信貞の証判を請ふ、
349
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年一二月一日
1336
足利直義、武蔵称名寺をして、同寺領水内郡太田庄大倉郷等を安堵せしむ、
351
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年一二月一一日
1336
足利直義、安保光泰をして、所領小県郡室賀郷地頭職等を安堵せしむ、
352
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年一二月二九日
1336
是より先、市河経助・同親宗、高師泰の将大高重成の軍に会す、是日、足利直義、経助の軍功を賞す、
353
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元元年
1336
勇健、大歇、紀伊大慈寺住持慈照高山、に参ず、
354
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年一月一八日
1337
是より先、足利尊氏、高師泰・村上信貞等をして、新田義貞の軍を越前金崎城に攻めしむ、是日、市河親宗・同経助・同助房代小見経胤等、同城攻撃にあたり、師泰・信貞等の軍に属して、勲功を顕す、尋で、屢戦功を樹つ、
355
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年二月
1337
後醍醐天皇、恒明親王の子明光宮を越後沼川に下向せしむ、仍つて、是日、仁科氏の族祢知盛継、天皇の綸旨を奉じて、村山氏一族の兵を徴す、
361
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年四月一六日
1337
新田義貞の党越後の池長久等、兵を挙ぐ、是日、市河助房代島田助朝、高梨経頼の軍に属して、同国水科・水吉等に長久等と戦ひ、功を顕す、
363
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年六月一三日
1337
東寺に落雷して、同寺塔婆角柱を損ず、諏訪円忠等、之を検分す、
364
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年七月一二日
1337
石見河本郷一方地頭小笠原貞宗代桑原家兼、河上孫三郎を攻め、功を顕す、
365
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年七月二五日
1337
足利尊氏、摂津多田院に諏訪盛経跡同国善源寺東方地頭職を寄進す、
366
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年八月一三日
1337
足利尊氏、小笠原政長の軍功を賞して、美濃中河御厨地頭職を与ふ、
366
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年八月二八日
1337
中野家氏、越後守護高師信に属して、越後符須厩に、新田義貞の党池長久等と戦ひ、功を顕す、
367
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元二年一二月九日
1337
足利尊氏、小笠原貞宗に令して、近江兵主社の年貢を究済せしむ、
368
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年一月一八日
1338
足利尊氏、志水実俊の勲功を賞し、更級郡小山田村地頭職を宛行ふ、
369
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年一月二四日
1338
足利尊氏、嶋津宗久の勲功を賞し、水内郡太田庄内大倉郷地頭職を宛行ふ、
370
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年一月二八日
1338
小笠原貞宗、北畠顕家の軍と、美濃青野原に戦ひて敗る、 三月八日、貞宗、高師直に属して、北畠顕信の軍と摂津に戦ふ、
371
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年三月一八日
1338
是より先、高梨定仏の女源氏、弟忠保と、高井郡東条庄内山田郷小馬場村の在家田畠を争論す、是日、高梨経頼等一族、之を裁し、源氏女の代高梨時綱をして之を領知せしむ、
373
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年四月二六日
1338
足利尊氏、村上河内権守をして、保巣長俊の武蔵称名寺領水内郡太田庄大倉郷に押妨するを停め、同寺をして所務を全うせしむ、
375
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年五月一七日
1338
足利尊氏、小笠原貞宗に、その所領近江兵主社の替地を与ふべきを約す、
376
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年七月一七日
1338
是より先、小笠原貞宗、南禅寺住持正澄清拙、より受戒し、伊那郡に開善寺を開剏して、正澄を請じて開山となす、是日、幕府、同寺を諸山に列す、 明千古鏡、・清闇中山、・清権正翁、・霊巨鼇、峯・清淳大翁、・清禅伯元、・清啓天与、・清光月甫、・清祐自天、・清檀疑清、・雲崗・清輔・全龍、梅渚、開善寺持となる、
377
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年閏七月一一日
1338
是より先、脇屋義助、斯波高経の軍と越前に戦ひ利あらず、是日、義助、畑時能をしてその湊城を守らしめ、同国国府に退く、
398