長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻五 (200頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後醍醐元弘三年五月二二日1333諏訪盛高、北条高時の子亀寿丸時行、を奉じて、信濃に逃る、200
後醍醐元弘三年六月七日1333後醍醐天皇、山城大徳寺をして、佐久郡伴野庄等同寺領を安堵せしめ、後伏見上皇もまた、同寺をして、同庄等を安堵せしむ、 伴野庄等相承次第、203
後醍醐元弘三年六月七日1333是より先、小笠原宗長、関東静謐の事を、足利高氏に報ず、是日、高氏、宗長に書を与へて、之を賞す、明日、また之を賞す、 宗長の伝記、206
後醍醐元弘三年六月七日1333高井郡志久見郷地頭市河経助・同助房甥助泰、新田義貞の軍に会す、210
後醍醐元弘三年六月一五日1333後醍醐天皇、山城大徳寺に、佐久郡伴野庄地頭職を寄進す、212
後醍醐元弘三年六月一八日1333市河助房・同経助等、足利高氏の軍に会す、212
後醍醐元弘三年七月三日1333後醍醐天皇、大徳寺をして、佐久郡伴野庄地頭職を安堵せしむ、213
後醍醐元弘三年八月三日1333是より先、後醍醐天皇、北条高時の党類の外、普く諸人をして当知行地を安堵せしむ、仍りて是日、信濃国司某、市河助房をして、当知行地を安堵せしむ、214
後醍醐元弘三年八月四日1333後醍醐天皇、小笠原貞宗に、美濃中河御厨を宛行ふ、216
後醍醐元弘三年一〇月二八日1333信濃国司清原某、望月重直女神氏姫夜叉、申請に任せ、神氏をして、小県郡海野庄賀沢村田在家を安堵せしむ、216
後醍醐元弘三年一一月五日1333信濃国司清原某、市河助房の申請に任せ、助房をして、高井郡中野西条田在家並びに同郡志久見郷惣領職等を安堵せしむ、218
後醍醐元弘三年一一月一〇日1333後醍醐天皇、大徳寺をして、佐久郡伴野庄内臼田原を安堵せしむ、219
後醍醐元弘三年一二月二九日1333足利尊氏、安保光泰をして、小県郡小泉庄内室賀郷地頭職を安堵せしむ、220
後醍醐元弘三年1333小県郡大法寺の三重塔なる、221
後醍醐元弘三年1333霊見、性海、建仁寺に同寺住持正澄清拙、の会下にあつて、請客侍者を掌る、222
後醍醐元弘三年1333足利尊氏、諏訪社上社をして、伊那郡飯田郷を安堵せしむ、222
後醍醐建武元年一月一三日1334坊門清忠、信濃権守に、久我通相、信濃権介に任ぜらる、223
後醍醐建武元年二月八日1334諏訪頼重、諏訪社上社神長官守矢有実の年貢得分中の除分を定む、224
後醍醐建武元年二月一四日1334西筑摩郡大桑村白山神社本殿・白山神社境内社蔵王神社社殿・同伊豆神社社殿・同熊野神社社殿成る、224
後醍醐建武元年三月一五日1334白川資英王、信濃守に任ぜらる、225
後醍醐建武元年四月一一日1334是より先、後醍醐天皇、佐久郡伴野庄内臼田原郷を、誤りて玉井為直等に宛行ふに依り、為直等に替地を授く、是日、大徳寺をして、同郷を安堵せしむ、225
後醍醐建武元年五月一〇日1334佐久郡伴野庄雑掌水沼実真、同庄領家方年貢を大徳寺に注進す、 某、諸人の伴野庄に違乱するを、大徳寺に注進す、226
後醍醐建武元年六月一六日1334山城城興寺雑掌、屋代下条一分地頭彦四郎姓闕く、等の、同寺領倉科庄の下地を押領し、年貢を違乱するを雑訴決断所に訴ふ、是日、雑訴決断所、牒を信濃守護所に移して、彦四郎等を召進めしむ、229
後醍醐建武元年八月一六日1334是より先、越後の人小泉持長等叛す、同国守護代官屋蔵与一等、兵を発して、持長を誅す、是日、市河助房等、与一等の軍に会す、230
後醍醐建武元年八月二一日1334後醍醐天皇、大徳寺住持妙超宗峯、の泰請に依り、同寺領佐久郡伴野庄等を一円不輸の地とし、国司・守護役及び役夫工米等の諸役を免除せしむ、233
後醍醐建武元年八月二一日1334是より先、後醍醐天皇、佐久郡伴野庄内高柳郷を誤りて継義姓闕く、に与ふ、是日、天皇、同郷を大徳寺に還附す、235
後醍醐建武元年八月二三日1334是より先、後醍醐天皇、越後国薗田保地頭職を村山隆義に宛行ふ、是日、越後守護代吉良満義、同職を隆義に打渡す、236
後醍醐建武元年八月1334後醍醐天皇雑訴決断所の寄人を増し、その結番を八番となし、五畿・七道の事を分掌せしむ、信濃国等東山道諸国、三番に属し、諏訪円忠等之を掌す、237
後醍醐建武元年一〇月一四日1334後醍醐天皇、京都北山第に笠懸を覧る、小笠原貞宗等、射手を勤む、 元弘乱静謐に依り、馬場殿に射的の儀行はる、小笠原貞宗等、射手を勤む、238
後醍醐建武元年一〇月一八日1334信濃の人、前建長寺住持徳璇玉山、寂す、240
後醍醐建武元年一二月一八日1334是より先、仁恭、石梁、佐久郡慈寿寺を開剏す、是日、仁恭、石梁、寂す、 祖裔竺芳、良耆大春、祖雲大閑、・一渓・祖安可心・祖昶韋天、・祖勗大機、・祖瑛玉堂、祖辰・剛岳、・祖陸、特山、同寺住持となる、243
後醍醐建武二年二月五日1335平長胤、後醍醐天皇の綸旨を、市河助房に伝へ、信濃の敵軍を討たんがため、一族を催さしむ、252
後醍醐建武二年二月八日1335後醍醐天皇、山城大徳寺の訴に依り、伴野弥三郎等の同寺領佐久郡伴野庄地頭職を違乱するを停め、同寺をして、之を安堵せしむ、尋で、中御門経継勅命に従ひ、信濃国目代をして、弥三郎等を糺弾せしむ、253
後醍醐建武二年三月三日1335信濃の僧、下伊那郡千代村法全寺開山正久、自明、寂す、254
後醍醐建武二年三月八日1335市河助房等、信濃守護小笠原貞宗の軍に属し、敵軍を水内郡常岩北条城に破る、尋で、助房、また府中の敵鎮圧のため、筑摩郡浅間宿に馳参ず、 この後、助房等、貞宗の軍に参ず、260
後醍醐建武二年六月1335市河助房・同経助等、信濃国司某同国下向にあたり、之に馳参ず、263
後醍醐建武二年七月一三日1335市河助房・同倫房・同親宗等、信濃守護小笠原貞宗の軍に馳参じ、尋で、埴科郡青沼・福井河原、更級郡八幡河・篠井・四宮河原等に北条時行の党と戦ふ、264
後醍醐建武二年七月一三日1335諏訪頼重、その子時継・滋野一族等と共に、北条時行を擁して兵を信濃に挙ぐ、267
後醍醐建武二年七月二二日1335北条時行等の軍、信濃を進発して、武蔵に入る、足利直義、諸将を遣はして、武蔵府中等に之を拒がしめんとして利あらず、是日、直義、自ら、同国井出沢に邀撃せんとして敗退す、270
後醍醐建武二年八月一日1335後醍醐天皇、五壇法を宮中に修して、北条時行・諏訪頼重等の討滅を祈る、また、東大寺等諸寺をして、之を祈らしむ、274
後醍醐建武二年八月一日1335市河倫房・同助保、小笠原経氏の軍に属し、北条時行の党を、佐久郡望月城に攻めて、之を破る、277
後醍醐建武二年八月九日1335是より先、足利尊氏、北条時行を討たんとして、京都を発す、是日、尊氏、時行の軍を遠江橋本に破る、安保光泰等、尊氏の軍に属して功を顕わす、278
後醍醐建武二年八月一四日1335是より先、山城城興寺所司、埴科郡倉科庄の事につき、如意寺僧正雑掌と争論す、雑訴決断所、如意寺僧正雑掌に出府対決を命ずるも之に応ぜず、仍つて、是日、信濃守護所をして、同庄を定せしむ、280
後醍醐建武二年八月一四日1335北条時行の将諏訪次郎・塩田陸奥八郎等、足利尊氏の軍と、駿河国府に戦ひて、虜らる、282
後醍醐建武二年八月一八日1335足利尊氏、相模の相模川に北条時行の軍を破る、尊氏の将小笠原七郎父子並びに小笠原彦次郎父子等討死し、時行の将金刺頼秀もまた戦死す、283
後醍醐建武二年八月一九日1335足利尊氏、北条時行の軍を相模辻堂・片瀬原に破り、鎌倉に入る、時行逃れ、諏訪頼重父子等、鎌倉勝長寿院に自害す、 諏訪頼重の孫頼経、諏訪郡原郷に匿れ、藤沢政頼、諏訪社上社大祝となる、285
後醍醐建武二年八月二〇日1335大友貞載、諏訪頼重追討の綸旨を、某に伝へ、兵を率ゐて出京すべきことを命ず、290
後醍醐建武二年八月二六日1335堀口貞政、北条時行の党追討の綸旨を、村山隆義に伝へ、一族を催すべきことを促す、291
後醍醐建武二年八月三〇日1335堀河光継、信濃守に任ぜらる、292
後醍醐建武二年九月三日1335市河倫房等・同助保、小笠原貞宗の軍に参ず、尋で、安曇・筑摩・諏訪・小県・伊那の諸郡に北条時行の党を破る、293
後醍醐建武二年九月二二日1335是より先、市河経助、村上信貞の軍に属して、北条時行の党薩摩刑部左衛門入道等を、埴科郡坂木北条城に攻む、是日、経助、軍忠状に証判を請ふ、294
後醍醐建武二年九月二七日1335足利尊氏、軍忠の賞として、小笠原貞宗に、安曇郡住吉庄等を、三浦高継に、筑摩郡村井郷内の地等を宛行ふ、295
後醍醐建武二年九月二九日1335是より先、山城大徳寺雑掌、倉沢弁芳等の同寺領佐久郡伴野庄に違乱するを訴ふ、是日、雑訴決断所、信濃国守護所をして、弁芳等の違乱を停め、同寺雑掌をして所務を全うせしむ、297
後醍醐建武二年九月三〇日1335小笠原貞宗等、信濃国司堀河光継に下向するを、筑摩郡浅間に迎ふ、市河助保等、之に従ふ、298
後醍醐建武二年一〇月二一日1335山城大徳寺領佐久郡伴野庄雑掌水沼実真、同庄の年貢員数を同寺に注進す、299