長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻五 (400頁~)
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南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年閏七月二九日
1338
足利尊氏、諸国守護に令して、その職務に違はざらしむ、諏訪円忠、之を奉行す、
400
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元三年一二月一七日
1338
足利直義、嶋津宗久をして、武蔵称名寺領水内郡太田庄内大倉郷地頭職を返付せしめ、同寺をして之を安堵せしむ、
401
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元四年三月一四日
1339
是より先、南禅寺住持正澄清拙、寂し、光厳上皇、師錬虎関、を同寺住持となす、是日、師錬、入院す、霊見性海、その会下にあつて、知客を掌る、
402
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元四年七月三日
1339
畑時能、越前金津・長崎・河合・河口等の諸城を攻め陥す、
404
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元四年七月五日
1339
石見河本郷一方地頭小笠原貞宗代武田弥三郎入道、同国市山城に新田義氏等と戦ふ、尋でまた、木村山に戦ひ勲功を顕す、
405
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元四年七月一五日
1339
東筑摩郡坂北村碩水寺阿弥陀如坐像の修理成る、
406
南朝後醍醐 北朝光明
南朝延元四年七月一九日
1339
近衛基嗣、同家領水内郡太田庄等を、山城東福寺海蔵院に寄進す、
407
南朝後村上 北朝光明
南朝延元四年八月一六日
1339
後醍醐天皇・吉野に崩ず、尋で、足利尊氏・同直義、その菩提を弔はんがため、天竜寺を建立せんとし、高師直・諏訪円忠等を奉行人に定む、 円忠、東寺領山城上柱庄及び若狭恒枝保にかかる争論の裁決に関与す、
408
南朝後村上 北朝光明
南朝延元四年九月一五日
1339
光厳上皇、南弾寺住寺師錬虎関、の奏請により、同寺開山普門無関、の塔所天授庵の敷地を同寺内に与ふ、尋で、塔院成る、
413
南朝後村上 北朝光明
南朝延元四年一〇月四日
1339
豊受大神宮政所、同宮領高井郡長田御厨・更級郡藤長御厨・安曇郡矢原御厨等の貢物の員数を注進す、
414
南朝後村上 北朝光明
南朝延元四年一〇月二五日
1339
少弐頼尚、幕府恩賞方仁科盛宗に、深堀政綱の恩賞のことを申請す、
415
南朝後村上 北朝光明
南朝延元四年一一月一三日
1339
足利尊氏、山城等持院に、後醍醐天皇百箇日曼荼羅供を行はんとし、諏訪円忠をして、同供大阿闍梨のことを随心院前大僧正に命ぜじむ、
416
南朝後村上 北朝光明
南朝延元四年一一月一四日
1339
幕府、播磨法雲寺を諸山に列す、尋で、同寺住持友梅、雪村、山城西禅寺住持良聰聞渓、にその席を譲る、
417
南朝後村上 北朝光明
南朝延元四年
1339
光明天皇、越中国泰寺住持妙意慈雲、に禅要を問ひ、請じて入内せしめんとす、妙意、法語及び大慧書・無門関を呈し、請に赴かず、
419
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年一月二四日
1340
安保光泰、子泰規等に小県郡室賀郷等の所領を処分す、
420
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年
1340
越中国泰寺住持妙意、慈雲、光明天皇の請に応じて上洛入内して、禅要を説く、
424
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年四月二一日
1340
天竜寺造営木造始、諏訪円忠、之に参候し、また、足利尊氏の寺領寄進状を草す、
425
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年六月二四日
1340
北佐久郡春日村康国寺の板碑成る、 この年次の銘ある北佐久郡津金寺、南佐久郡明光寺・正楽寺・弥勤寺、小県郡佐藤邦子氏、松本市岩間彦英氏所蔵の板碑、
426
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年七月八日
1340
伊那市笠原阿弥陀堂の薬師如来像成る、
429
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年八月一二日
1340
足利直義、諏訪円忠の天竜寺造営奉行の功を賞し、近江三宅郷内十二里並びに赤野井村地頭職を宛行ふ、
431
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年八月二〇日
1340
新田義宗等、越後より高井郡志久見山に攻入り、長峯に陣す、信濃守護代吉良時衡、市河倫房等を率ゐて之を攻む、翌日、之を退く、
433
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年八月二二日
1340
安保光泰、子泰規等に小県郡室賀郷等を譲る、尋で、高師冬、之に証判を与ふ、 小泉庄の名の見ゆる年月未詳文書断簡、
434
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年一〇月一五日
1340
佐久郡福王寺阿弥陀如来像の修理成る、
437
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年一〇月一九日
1340
斯波高経の軍、畑時能を越前畑城に攻む、尋で、之を降す、
438
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年一〇月二四日
1340
是より先、北条時行、伊那郡の大徳王寺城に兵を挙ぐ、諏訪社上社大祝諏訪頼嗣、之を援く、是日、信濃守護小笠原貞宗、之を攻めて陥る、
441
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年一一月二一日
1340
足利直義、嶋津宗久をして水内郡太田庄内神代郷地頭職等を安堵せしむ、
442
南朝後村上 北朝光明
南朝興国元年
1340
信濃の僧玄提、玉山、日向大慈寺を開剏すと伝ふ、
443
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年一月五日
1341
信濃の僧、甲斐立正寺開山日法、寂す、
445
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年二月二七日
1341
斯波高経の将上木家光等、畑時能を越前鷹巣城に攻めて敗績す、
448
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年四月一六日
1341
妙在、此山、漂州崇勝院石霜山、にあつて、再び秉払を勤む、
451
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年五月二八日
1341
市河倫房等、信濃守護小笠原貞宗等の軍に属して、越後妻在庄を攻めんとし、途中高井郡志久見河原に、新田氏の軍を敗る、尋でまた、同庄内赤沢南山を攻め、新田右馬助等の館を焼く、
451
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年八月一二日
1341
越中興化寺開山運良、恭翁、寂す、同門同国国泰寺住持妙意、慈雲、同寺の大衆を率ゐて、その葬に赴く、
453
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年九月九日
1341
是より先、山城後醍醐寺座主覚済、高井郡小菅寺大進阿闍梨の請に依り、結縁灌頂法則並びに同道具目録を書き与ふ、是日、僧禅恵、河内金剛寺に、道具目録を、尋でまた、法則を書写す、
454
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年一〇月二一日
1341
是より先、恵藤職成等、諏訪円忠の所領近江赤野井村を押領す、是日、足利直義、職成等の違乱を停止し、円忠をして下地を安堵せしむ、
455
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年一〇月二二日
1341
畑時能、越前伊地山に、斯波高経と戦ひ、疵を蒙る、尋で、卒す、
456
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年一〇月二八日
1341
美濃白河山、造豊受大神宮御杣に定めらる、
458
南朝後村上 北朝光明
南朝興国二年
1342
勇健大歇、剃髪受具して、建仁寺に掛搭す、
459
南朝後村上 北朝光明
南朝興国三年一月二九日
1342
花園上皇、山城仁和寺花園御所跡の地を、妙心寺住持慧玄関山、に寄進す、
460
南朝後村上 北朝光明
南朝興国三年二月
1342
是より先、幕府、犬追物を禁制す、是月、小笠原貞宗、武芸習練のため、その禁を解かれんことを請ふ、
461
南朝後村上 北朝光明
南朝興国三年三月一三日
1342
小笠原貞宗、市河親房等を率ゐて、常陸大宝城を攻む、尋で、再び之を攻む、
464
南朝後村上 北朝光明
南朝興国三年九月六日
1342
是より先、武蔵称名寺、嶋津宗久跡代官等の、同寺領水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを訴ふ、是日、幕府、小笠原貞宗をして、その押妨を停め、同寺をして、之を安堵せしむ、
465
南朝後村上 北朝光明
南朝興国三年
1342
霊見、性海、入元す、
466
南朝後村上 北朝光明
南朝興国三年一二月五日
1342
勅使並びに足利尊氏・同直義、天竜寺上棟綱引及び禄引の儀に臨む、小笠原貞宗等、之に供奉す、
467
南朝後村上 北朝光明
南朝興国三年
1342
勇健、大歇、建仁寺住持竺源東海、の会下にあり、
469
南朝後村上 北朝光明
南朝興国三年
1342
信濃の僧良標無格、入元の途次、船中に寂す、
470
南朝後村上 北朝光明
南朝興国四年二月二〇日
1343
信濃守護小笠原貞宗、同兼経をして、嶋津宗久跡代官等の、武蔵称名寺領水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを停めしむ、
473
南朝後村上 北朝光明
南朝興国四年三月一二日
1343
仁科盛澄、茂木入道某後家如海御前、と和談し、筑摩郡神林郷下村を後家に返付し、以後同地に違乱せざらんことを約す、
474
南朝後村上 北朝光明
南朝興国四年三月二二日
1343
市河助房、高井郡中野郷内西条・志久見郷惣領職等を、子松王丸頼房、に譲る、
475
南朝後村上 北朝光明
南朝興国四年一一月
1343
僧宗昭、覚如、親鸞上人絵伝を書写す、更級郡康楽寺僧円舜、その絵を画く、尋でまた、宗昭、之を書写す、
476
南朝後村上 北朝光明
南朝興国四年
1343
勇健、大歇、紀伊楞厳寺住持慈照高山、より臨終に先だつて、その法衣を伝授せらる、
478
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年一月二四日
1344
北朝除目、中原重直、信濃大掾に任ぜらる、
479
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年一月二九日
1344
幕府弓始、小笠原行嗣等、射手を勤む、
479
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年三月二一日
1344
幕府、引付衆結番を定む、諏訪円忠等、その列に加へらる、
480
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年三月
1344
光明天皇、越中国泰寺を紫衣出世道場となし、妙意慈雲、をその住持に勅請す、
481
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年
1344
宗良親王、伊那郡大河原にあり、
483
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年五月一七日
1344
足利直義、山城新熊野社に詣づ、小笠原新蔵人等、之に供奉す、
484
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年六月一七日
1344
諏訪円忠、近江赤野井村内勘解由田を山城法観寺に寄進す、
486
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年九月二三日
1344
北朝京官除目、藤井正次、信濃目に任ぜらる、
488
南朝後村上 北朝光明
南朝興国五年一一月一二日
1344
小笠原貞宗、信濃守護職並びに伊那郡伊賀良庄等の所領を、子政長に譲る、
489
南朝後村上 北朝光明
南朝興国六年二月六日
1345
光厳上皇、幕府の奏請に依り、国毎に建立の寺院の通号を安国寺と定む、信濃に於ては、諏訪郡に疎石夢窓、の開剏するところの寺院を之に充つ、 中遇即宗、祖庵、同寺住持となる、
490
南朝後村上 北朝光明
南朝興国六年二月一三日
1345
花園上皇、河内下仁和寺庄地頭職を妙心寺住持慧玄関山、に寄進す、
496
南朝後村上 北朝光明
南朝興国六年二月二〇日
1345
是より先、越後の新田義貞の党祢智盛継・仁科右馬助等、兵を同国沼川に挙ぐ、是日、村山高直、足利尊氏の党長尾清景の軍に属し、之と戦ひ軍功を顕す、
497
南朝後村上 北朝光明
南朝興国六年二月二〇日
1345
近衛基嗣、中原師守をして、近衛家領水内郡芋河庄の知行を安堵せしむ、
498
南朝後村上 北朝光明
南朝興国六年四月二日
1345
南禅寺住持梵僊、竺仙、同寺帰雲院の門徒の請に依り、祖円規庵、の三十三年忌陞座仏事を同院に行ふ、
499
南朝後村上 北朝光明
南朝興国六年五月
1345
脇屋義治、児島高徳に擁せられて、京都を攻めんとし、敗れて信濃に奔ると伝ふ、
509