長野県立歴史館 信濃史料
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後醍醐
文保二年三月一五日
1318
嶋津忠宗、水内郡太田庄内南郷等を嫡子貞久に譲る、尋で、幕府、貞久をして、之を安堵せしむ、
1
後醍醐
文保二年一二月二二日
1318
幕府、茂木長典をして、所領筑摩群神林郷等を安堵せしむ、
3
後醍醐
元応元年五月
1319
僧宗昭、学如、三河より伊那郡飯田に入る、尋で、北陸を経て帰洛す、
4
後醍醐
元応元年七月一二日
1319
是より先、白河有忠、筑摩郡竹淵郷地頭泰経等の、諏訪社上社御射山頭役に合力せざるを幕府に訴ふ、是日、幕府、泰経等をして、有忠に与力して之に勤仕せしむ、
4
後醍醐
元応元年一〇月
1319
近江日吉社祢宜祝部俊貞等、同社領を注進す、その中に小県郡浦野庄等あり、
6
後醍醐
元応二年八月九日
1320
僧実秀、更級郡富部御厨神明社の大般若経を書写す、
8
後醍醐
元応二年一〇月一三日
1320
是より先、高野山蓮花乗院学侶、藤原貞親の同院領紀伊南部庄正和三年分年貢の抑留を幕府に訴ふ、是日、貞親、今年諏訪社下社頭役勤仕により緒公事免除と雖も、この分に於ては特に弁済すべきを高野山金剛峯寺に答ふ、
9
後醍醐
元応二年一一月二五日
1320
信濃の人鶴岡八幡宮寺供僧頼証、寂す、
10
後醍醐
元応二年
1320
後醍醐天皇、妙意滋雲、を請じて、禅要を問ひ、清泉禅師の号及び紫衣を授く、
10
後醍醐
元応二年
1320
小県郡長泉寺の板碑成る、 この年次の銘ある上田市佐藤邦子氏、長野市役所・長野市中御所観音堂・北佐久郡雲寺所蔵の板碑、
12
後醍醐
元亨元年三月一八日
1321
藤原正長、法華経版木を戸隠社中院に施入す、 この後、法華経・大般若経等の版木、戸隠社中院に施入せらる、
14
後醍醐
元亨元年六月二二日
1321
幕府、小笠原道円知行分の地等を、武蔵称名寺に寄進す、
18
後醍醐
元亨元年一〇月一二日
1321
筑摩郡光輪寺の鰐口成る、
20
後醍醐
元亨元年一〇月二四日
1321
市河盛房、子女等、に所領を譲り、子助房に高井郡志久見郷惣領職等を、大井田女子に同郷内雪坪在家等を充つ、尋で、幕府、助房・大井田女子等をして、之を安堵せしむ、
20
後醍醐
元亨元年
1321
後醍醐天皇、山城石清水八幡宮寺愛染明王堂を勅願寺となす、更級郡小谷庄等その料所たり、
24
後醍醐
元亨元年
1321
信濃の僧霊見、性海、家塾に就きて学ぶ、
25
後醍醐
元亨二年五月一五日
1322
曽我資光、水内郡こいの郷田在家地頭職等を、父光頼に譲る、
25
後醍醐
元亨二年七月五日
1322
諏訪新左衛門尉病む、依りて、是日、近江明王院、冥道供を修す、
27
後醍醐
元亨二年一〇月二七日
1322
筑摩郡若沢寺の金剛力士像成る、
27
後醍醐
元亨三年一月一四日
1323
上伊那郡川島村観音堂の十一面観音像成る、
28
後醍醐
元亨三年四月一四日
1323
遍照院頼印の母、諏訪社下社に祈りて、頼印を生むと伝ふ、
32
後醍醐
元亨三年五月二〇日
1323
嶋津久長、子ほうしゆに、水内郡太田庄神代郷内の田地を譲る、 正中元年三月、島津家文書目録注せらる、
33
後醍醐
元亨三年六月八日
1323
是より先、前南禅寺住持崇喜、見山、更級郡興禅寺を開剏す、是日、寂す、
36
後醍醐
元亨三年六月二〇日
1323
幕府、先に武蔵称名寺に寄進せる小笠原道円知行分の地の替として、多胡氏家の所領を同寺に寄進す、
37
後醍醐
元亨三年七月二七日
1323
是より先、諏訪社下社大祝金勅時澄、同社領筑摩郡塩尻郷東条地頭塩尻重光の神役用途を抑留するを訴ふ、是日、幕府、之を裁し、重光をして結解を遂げ未進分を弁済せしむ、
38
後醍醐
元亨三年九月五日
1323
是より先、島津宗久、父久長相伝所領水内郡太田庄神代・津野両郷等の安堵を幕府に請はんがため、証文を作りて鎮西探題北条英時に証判を請ふ、是日、英時、之に証判を加ふ、
40
後醍醐
元亨三年一〇月二日
1323
筑摩郡光輪寺の日光・月光両菩薩像成る、
42
後醍醐
元亨三年一〇月二六日
1323
幕府、北条貞時十三回忌仏事を相模円覚寺に行ふ、諏訪頼重等信濃の諸士、供物を進む、
43
後醍醐
元亨三年一二月
1323
後醍醐天皇、南禅寺開山普門無関普門房、の三十三年忌に際し、大明国師の号を加諡す、
47
後醍醐
正中元年一月九日
1324
小県郡霊泉寺開山源興、雲峰、寂す、
47
後醍醐
正中元年九月二三日
1324
是より先、京都よりの使、後醍醐天皇に討幕の議あることを、鎌倉に報ず、是日、幕府、諏訪三郎兵衛等をして、急遽京都に向はしむ、尋で、天皇の近臣日野資朝等、捕へられて鎌倉に至る、幕府、諏訪時光等をして、之を尋問せしむ、
51
後醍醐
正中元年九月
1324
信濃国雑掌則能、書を幕府に送り、高井郡志久見郷地頭市河盛房以下名主等をして、国検に合力せしめられんことを、請ふ、
53
後醍醐
正中二年三月
1325
東寺公文大江某、山城東寺最勝光院領の年貢公事等を注進す、その中に小県郡塩田庄の分あり、 小県郡塩田庄、東寺被物月宛を課せらる、
54
後醍醐
正中二年一一月二五日
1325
山城三千院別当任禅、同院門跡領寺院・本尊・聖教・坊舎並びに庄園・所領等を勘注す、その中に水内郡顕光寺あり、
57
後醍醐
正中二年一二月八日
1325
幕府、武蔵称名寺領水内郡太田庄雑掌の訴により、同庄大倉・石村両郷地頭をして、両郷の検注に合力せしむ、
59
後醍醐
正中二年
1325
霊見、性海、建長寺に同寺住持正澄清拙、の室に入つて出家す、
59
後醍醐
嘉暦元年三月二五日
1326
是より先、臼田重経、咎に依りて、その所領三分一を没収せらる、是日、幕府、之を返付し、重経をして安堵せしむ、
60
後醍醐
嘉暦元年五月二七日
1326
曽我光頼、光称、西浜合戦出陣にあたり、所領水内郡こいの郷内田在家等を、子をとはう丸に譲る、
61
後醍醐
嘉暦元年八月四日
1326
是より先、後醍醐天皇、山城蓮花王院領安曇郡矢原庄のことに就き、綸旨を伊勢大神宮祭主藤波隆実に下す、是日、吉田冬方、之を伝達す、
62
後醍醐
嘉暦元年
1326
正澄、清拙、信濃の僧筑前円覚寺住持元中秀山、に道号頌を与ふ、
63
後醍醐
嘉暦二年三月
1327
九条房実、信濃の人祢津貞直の、朝廷に献ぜし白鷹につき、白鷹記を著す、
63
後醍醐
嘉暦二年八月二三日
1327
是より先、嶋津弥三郎、称阿、所領水内郡太田庄下浅野郷内田在家を、和田彦三郎の所領越後奥山庄内田在家と相博す、是日、幕府、弥三郎の申請に任せて、之に誌証を与ふ、
65
後醍醐
嘉暦二年九月一二日
1327
諏訪新左衛門尉病む、依りて、是日、近江明王院、冥道供を修す、
66
後醍醐
嘉暦二年一〇月八日
1327
是より先、市河盛房、中野次郎後家の正和五年分諏訪社五月会頭役用途を懈怠するを幕府に訴ふ、是日、幕府、後家をして之を究済せしむ、
66
後醍醐
嘉暦三年一二月二日
1328
後醍醐天皇、祖円規奄、に南院国師の諡号を授く、
67
後醍醐
嘉暦三年
1328
後醍醐天皇、妙意滋雲、の住持せる越中東松寺を国泰寺と改称せしめ、位を南禅寺に等しからしむ、
69
後醍醐
元徳元年
1329
阿曽沼某、伊那郡飯田郷を諏訪社上社に寄進す、
69
後醍醐
元徳元年二月
1329
大徳寺住持妙超、宗峯、信濃の僧慧玄関山、に、道号関山の二大字及びその頌を与ふ、
69
後醍醐
元徳元年三月
1329
幕府、諏訪社上社五月会御射山頭役等の結番を定め、併せて同社造営所役を信濃諸郷に課す、
70
後醍醐
元徳元年六月一日
1329
僧明円、禅実房、水内郡顕光寺寶光院の大般若経修理を始む、
84
後醍醐
元徳元年六月一八日
1329
信濃の僧勇健、大歇、伊那郡長岡に生まる、
86
後醍醐
元徳元年六月二三日
1329
市河盛房後家尼せんかう、子助房等に、高井郡中野郷西条並びに志久見郷内の所領を譲る、
86
後醍醐
元徳元年
1329
信濃の僧妙在、此山、元国湘州石霜山にあり、重顕隠之、の三寶讃の韻を追和して長偈を作る、
88
後醍醐
元徳元年
1329
是より先、武蔵称名寺領水内郡太田庄雑掌、重ねて、同庄大倉・石村両郷地頭の、検注に合力せざるを訴ふ、是日、幕府、同地頭に陳状の提出を促す、 二年七月廿七日、乗宣、信濃某所等の年貢のことにつき、称名寺に注進す、
90
後醍醐
元徳元年七月
1329
小県郡安楽寺開山惟僊樵谷、の像成る、尋で、同寺二世恵仁㑃牛、の像成る、 惟僊の事蹟、 別宗・芳遠、安楽寺住持となる、
92