長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻六 (1頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
南朝後村上北朝光明南朝正平二年五月二〇日1347足利尊氏、小笠原政長をして、信濃守護職並びに所領等を安堵せしむ、1
南朝後村上北朝光明南朝正平二年五月二六日1347前信濃守護小笠原貞宗、卒す、2
南朝後村上北朝光明南朝正平二年五月1347信濃の僧良中、大本、建仁寺大龍庵造営の化緑疏をつくる、15
南朝後村上北朝光明南朝正平二年七月二二日1347花園法皇、慧玄関山、に、妙超宗峯、の門派再興及び山城妙心寺造営を遺嘱す、17
南朝後村上北朝光明南朝正平二年七月二九日1347花園法皇、妙心寺内の法皇の寿塔玉鳳院を同寺住持慧玄関山、に付し、その門派をして、同院塔主職を相承せしむ、18
南朝後村上北朝光明南朝正平二年八月1347妙在、此山、山城真如寺主持となり、入院す、19
南朝後村上北朝光明南朝正平二年九月三日1347是より先、諏訪社上社大祝諏訪頼嗣、信濃国司を望みて、信濃権守に任ぜらる、是日、頼嗣、之を領状せず、重ねて、国司に任ぜられんことを請ふ、21
南朝後村上北朝光明南朝正平二年一〇月一一日1347是より先、大徳寺雑掌宗秀、同寺領佐久郡伴野庄地頭伴野長房の年貢抑留を訴ふるに依り、幕府、長房の陳弁を求む、是日、長房代官秀慶、抑留年限の明示を俟ちて、陳状を進むべきを答ふ、22
南朝後村上北朝光明南朝正平二年一一月二五日1347足利直義、光厳上皇の旨に任せ、味方に馳参ずべきを、高井郡中野一族に伝ふ、23
南朝後村上北朝光明南朝正平二年一一月二五日1347北党小笠原信濃守、山名時氏・細川顕氏に属して、摂津住吉に楠木正行の軍を攻む、尋で、信濃守等の軍敗退す、24
南朝後村上北朝光明南朝正平二年一二月三日1347山内通時、所領筑摩郡下平田郷地頭職等を子熊寿丸通継、に譲る、25
南朝後村上北朝光明南朝正平二年1347宗良親王、吉野へ上らんとして、伊那郡大河原を発し、京都に向はんとす、尋で、美濃に至り、その難きを知り、駿河に出で、明年信濃に還る、27
南朝後村上北朝光明南朝正平三年・北朝貞和四年一月三日1348小笠原某、高師直の軍に属し、河内四条畷に楠木正行の軍と対時す、31
南朝後村上北朝崇光北朝貞和四年・南朝正平三年一一月一〇日1348是より先、妙心寺住持慧玄、関山、彦部七郎の、同寺領河内下仁和寺庄領家職半分を濫妨するを停められんことを、光巌上皇に請ふ、是日、上皇、幕府をして之を糾問せしむ、、33
南朝後村上北朝崇光北朝貞和四年・南朝正平三年一一月二三日1348是より先、勇健、大歇、建仁寺住持円旨別源、の会下にあつて、湯薬侍者を掌る、是日、冬至乗払に禅客を勤む、35
南朝後村上北朝崇光北朝貞和四年・南朝正平三年一一月二三日1348信濃の僧周祭、鑑渓、天龍寺に於て、蔵主寮に拠つて乗払す、36
南朝後村上北朝崇光北朝貞和四年・南朝正平三年1348霊見、性海、元国に疾み、鎮江府龍遊寺金山、に掛塔せる周及愚中、の庇護を受け、同時に療病す、37
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年二月六日1349小槻匡遠、山城大徳寺領佐久郡伴野庄の役夫工米所課の田数を、同寺に注進す、38
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年二月一六日1349北朝除目、源有範、信濃介に任ぜらる、39
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年三月一七日1349是より先、幕府、武蔵称名寺雑掌の訴に依り、信濃守護小笠原政長をして、嶋津宗久跡給人の同寺領水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを停めしめんとす、宗久跡給人、今年諏訪社上社御射山頭役勤仕により、その遵行の延期を政長に乞ふ、仍つて、是日、政長、その旨を幕府に披露す、 称名寺良性房、大倉郷に下向す、39
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年三月二五日1349北朝県召除目、源利治、信濃守に任ぜらる、42
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年四月一七日1349光厳上皇、妙心寺住持慧玄関山、の訴に依り、幕府をして、彦部七郎の、同寺領河内下仁和寺庄地頭職を濫妨するを停めしむ、42
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年五月七日1349信濃の僧前筑前聖福寺住持元中、秀山、寂す、45
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年五月一四日1349是より先、出雲杵築社祠官千家孝宗、甥同資孝と出雲国造及び同社神主職につき争論す、是日、幕府奉行人諏訪円忠等、之を裁し、孝宗をして同職を安堵せしむ、47
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年七月五日1349上田市宗吽寺の石造燈籠成る、50
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年七月二五日1349足利直義、越中守護桃井直常をして諏訪松犬丸康嗣、の、山城祇園社領越中高木村大鷹入道跡、を知行するを停め、同社御師顕詮代官に渡付せしむ、51
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年八月一三日1349是より先、高師直、足利直義と隙あり、是日、師直、直義を撃たんとして兵を集む、祢津行貞・知久四郎左衛門等、直義方に属し、小笠原政長・伴野長房等、師直方に参ず、52
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年八月一五日1349足利尊氏、高師直の訴に依り、直義の党上杉朝定等を、信濃に配流せんとす、54
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年八月一六日1349北朝、延暦寺衆徒の訴により、毘沙門堂僧正実尊の信濃配流を議す、55
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年九月五日1349幕府、山城等持寺に法華八講を修す、諏訪円忠等、之を奉行す、59
南朝後村上北朝崇光南朝正平四年一一月二七日1349大徳寺住持義亨、徹翁、同寺領庄園文書目録を注す、その中に佐久郡伴野庄の文書あり、59
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年一月一四日1350幕府的始、小笠原六郎等、射手を勤む、60
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年二月一四日1350山城祇園社領越中高木村前給主諏訪円忠代官使者石瀬二郎、同村年貢納入のため、同社に来る、61
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年三月六日1350幕府、武蔵称名寺雑掌光信の訴に依り、大井光長等をして、嶋津宗久跡代官・高梨経頼等の、同寺領水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを停め、下地を光信に渡付せしむ、62
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年三月二九日1350北朝県召除目、安部豊房、信濃権守に、藤井有右、同大掾に任ぜらる、63
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年四月二一日1350北朝除目、藤原行盛、信濃守に任ぜらる、64
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年六月二五日1350山城祇園社正禅等、善光寺等参詣のため、下向す、 自厳竹隠、深禅者等善光寺に参詣す、 善光寺如来の詠と伝ふる和歌、65
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年八月二〇日1350阿曽沼秀親、所領伊那郡飯田郷地頭職等を嫡子に譲る、67
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年九月三日1350信濃・越後・常陸等に叛徒蜂起すとの風聞京都に達す、 信濃緒牧の貢馬、美濃合戦に依り、抑留せらる、68
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年九月三日1350是より先、諏訪貞継、上洛し、京都四条坊門に居をとす、是日、貞継、越中に下向す、69
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年九月一〇日1350下伊那郡三穂村興徳寺の阿弥陀如来像成る、70
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年一〇月二一日1350足利尊氏、九州鎮定に下向せんがため、信濃守護小笠原政長に、一族及び同国地頭・御家人を催して上洛せんことを促す、71
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年一〇月二六日1350足利直義、知久四郎左衛門尉を伴なひ、京都を出奔す、72
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年一二月一五日1350諏訪頼嗣、諏訪社上社に所領を寄進す、 頼継、諏訪社上社神長官の改年を祝し、御玉会及び鷹を贈れるに答謝す、72
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年一二月一八日1350足利直義、諏訪三郎左衛門尉跡代官の、摂津夛田院領同国善源寺東方地頭職を違乱するを停め、同院をして、之を安堵せしむ、74
南朝後村上北朝崇光南朝正平五年1350勇健、大歇、伊那郡に帰郷して、同郡の澄心庵に寓す、 勇健、諏訪社に参篭す、75
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一月五日1351是より先、諏訪直頼、足利直義に党し、京都より信濃に赴き、是日、市河泰房等をして、埴科郡船山郷内守護館に小笠原政長の軍を攻めしむ、76
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一月七日1351小笠原政長父子等、足利直義の山城八幡の陣に参ず、77
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一月九日1351宗良親王、叡山に至るとの風聞あり、77
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一月一〇日1351足利義直党諏訪直頼、市河経助等を率ゐて、小笠原政長の弟政経等を筑摩郡放光寺に攻めて之を降す、77
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一月一六日1351小笠原政長、京都の居館を焼き、足利直義の軍に奔る、78
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一月一七日1351是より先、諏訪直頼、市河経助等を率ゐて、高師冬等を甲斐須沢城に攻め、是日、之を陷る、80
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一月二六日1351小笠原政長、所領美濃中河庄内の地を石王丸政清、に譲る、83
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一月二八日1351足利直義、知久四郎左衛門をして、僧好専を誅せしむ、84
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年二月五日1351道善卒す、尋で、宝篋印塔成る、 この年代の銘ある小県郡神科村洞源寺所蔵の宝篋印塔、84
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年二月一八日1351足利尊氏の軍、摂津兵庫に至る、足利直義の党小笠原政長等、之を同国打出浜等に破る 上杉朝房、信濃を発し、同能憲と共に、足利直義の軍に属し、高師直を攻む、85
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年二月二三日1351足利義詮、丹波より京都に攻入らんとすとの風聞あり、諏訪直頼等、之を禦がんとして、京都を出発す、87
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年四月一六日1351北朝除目、源秀時、信濃守に任ぜらる、88
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年五月1351霊見、性海、元国より帰朝す、89
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年六月二日1351是より先、毛見実綱、木嶋五郎二郎の、高井郡毛見郷栖・平沢両村地頭職を違乱するを、幕府に訴ふ、五郎二郎、幕府の糾問に応ぜず、仍つて、是日、幕府、市河経助をして、五郎二郎の上洛を促さしむ、91
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年六月五日1351是より先、僧房玄、相模久遠寿量院別当職につき、僧房仙と争論す、是日、幕府奉行人安富民部大夫、先の裁決につき、先奉行人諏訪円忠に問ふ、92
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年六月一〇日1351幕府、武蔵称名寺雑掌光信の訴に依り、祢津宗貞等をして、嶋津宗久跡代官等の、同寺領水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを停め、下地を光信に渡付せしむ、93
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年六月二九日1351足利尊氏の党小笠原為経・同光宗等、武田文元・佐藤元清等を率ゐて足利直義の党諏訪直頼代官祢津宗貞と、野辺原に戦ふ、94
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年七月三〇日1351足利直義、京都を脱れ北国に赴く、諏訪直頼等、之に随ふ、96
南朝後村上北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年八月三日1351足利尊氏の党小笠原為経の軍、足利直義の党香坂美濃介と更級郡富部原に戦ふ、尋で、直義の党諏訪直頼代官祢津宗貞と善光寺に、また、直頼と高井郡米子城に戦う、98