長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻六 (100頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
南朝後村上 北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年八月一〇日1351足利尊氏、小笠原政長をして、足利直義の軍の信濃入国を禦がしむ、100
南朝後村上 北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年八月二一日1351畠山直顕、祢寝清成一族の戦功を、足利直冬に披露せられんことを、仁科盛宗に請ふ、102
南朝後村上 北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年八月二二日1351光厳上皇、慧玄関山、を再び妙心寺住持となす、102
南朝後村上 北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年九月五日1351足利尊氏、丹波瓦屋庄を山城天龍寺に寄進す、諏訪円忠、その使者を勤む、103
南朝後村上 北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一〇月二八日1351足利尊氏の党小笠原政長の軍、信濃より遠江に入り、足利直義の党吉良満貞代官富長某と引間宿に戦ふ、尋で、直義の党上杉憲顕の軍と同国佐江中山に戦ふ、104
南朝後村上 北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一〇月三〇日1351諏訪円忠、所領近江赤野井村及び三宅十二里を、山城臨川寺三会院寄進す、尋で、足利尊氏、同院をして、之を安堵せしむ、105
南朝後村上 北朝崇光南朝正平六年・北朝観応二年一一月三日1351足利尊氏、諏訪直頼をして、高梨経頼等の、武蔵称名寺水内郡太田庄内大倉郷を違乱するを停め、下地を同寺雑掌に渡府せしむ、109
後村上正平六年一一月二一日1351諏訪社上社大祝諏訪信嗣、神長守矢頼実をして、伊那郡飯田郷を安堵せしむ、111
後村上正平六年一二月一〇日1351足利尊氏の党小笠原為経の軍、足利直義の党諏訪直頼の軍と小県郡夜山中尾に戦ふ、112
後村上正平六年一二月一五日1351足利尊氏、小笠原政長の信濃に於ける戦功を賞し、併せて、駿河に来援すべきを促す、113
後村上正平六年一二月二三日1351足利義詮、信濃春近領半分上杉藤成跡、地を、小笠原政長に宛行ふ、115
後村上正平六年一二月二七日1351足利直義、伊豆国府津に、同尊氏の軍と戦ひて敗る、直義の党上杉憲顕等、信濃に逃る、116
後村上正平六年一二月二七日1351滋野光重、所領小県郡海野庄田中郷内の地を叔父宗氏・大熊女子等に譲る、117
後村上正平六年一二月二九日1351足利尊氏の党小笠原政長の軍、甲斐に入り、足利直義の党武田貞政を七覚寺に破る、尋で、政長、鎌倉に入る、118
後村上正平六年一二月1351勇健、大歇、美濃大円寺に同寺住持祖一峰翁、に参じて、省悟あり、121
後村上正平六年1351田代基綱、諏訪円忠の、基綱の所領近江三宅郷十二里地頭職等を押領するを幕府に訴へ、その還付を乞ふ、123
後村上正平七年一月一一日1352前東福寺住持義冲、大陽、寂す、尋で、礼云、玉洲、同寺曽源庵にその塔を拝して偈頌をつくる、妙在、此山、その韻を和す、125
後村上正平七年一月一九日1352足利尊氏、小笠原政長をして信濃春近領を、同長基をして同所欠所分を夫々安堵せしめ、併せて、政長をして、同国内欠所地を小笠原一族並びに軍忠の地頭御家人等に配分せしむ、126
後村上正平七年二月一三日1352高梨経頼、高井郡北笠原上条郷内夜交村を宛行はる、128
後村上正平七年二月二七日1352諏訪円忠、洞院公賢を訪ひ、世事を談ず、129
後村上正平七年閏二月六日1352後村上天皇、宗良親王を、征夷将軍に任ず、 宗良親王、北畠親房と和歌を贈答す、130
後村上正平七年閏二月一〇日1352足利直冬の将仁科盛宗、吉河経兼等をして、石見三隅城を守らしむ、132
後村上正平七年閏二月一六日1352是より先、新田義宗・同義興等、兵を上野に起し、武蔵を攻略す、諏訪社上社大祝等、之に応じて兵を信濃に起し、宗良親王を擁して是日進発す、尋で、足利尊氏、鎌倉を脱し、武蔵狩野川に奔る、133
後村上正平七年閏二月二八日1352宗良親王、新田義宗等と共に信濃等の軍を率ゐ、足利尊氏の軍と武蔵小手指原・高麗原・笛吹峠等に戦ひ、敗れて信濃に退く、小笠原政長、尊氏の軍に、祢津小次郎、親王の軍に属して戦ひ、 五月廿日、北条時行、龍口に於て誅せらる、137
後村上正平七年三月九日1352上杉朝定、信濃に卒す、146
後村上正平七年四月一〇日1352足利尊氏、諏訪左近蔵人をして、陸奥の南党討伐に合力せしむ、148
後村上正平七年四月二五日1352是より先、小笠原政長、鎌倉より信濃に帰り、諏訪直頼の党を攻む、偶々病を得るに依り、是日、書をせうとのの局に遺りて後事を託す、149
後村上正平七年五月一一日1352宗良親王、諏訪社上社大祝及び滋野氏等の軍を率ゐ、信濃を発して、山城八幡に、後村上天皇の救援に赴く、150
後村上正平七年六月二七日1352足利尊氏、同義詮に命じ、山城臨川寺をして、諏訪円忠の寄進にかかる同三会院領近江赤野井村並びに三宅郷十二里を安堵せしむ、151
後村上正平七年七月一七日1352足利尊氏、信濃春近領並びに同欠所分を、小笠原政宗に宛行ふ、152
後村上正平七年七月二四日1352前南禅・東福両寺住持師錬虎関、七周忌、遺弟心凉檀渓、霊見性海、をして陞座説法せしむ、153
後村上正平七年七月1352武蔵称名寺雑掌幸円、嶋津宗久跡の輩の、同寺領水内郡太田庄大倉郷を違乱するを停め、下地を寺家に渡付せられんことを、幕府に訴ふ、157
南朝後村上北朝後光厳南朝正平七年・北朝文和元年一二月二三日1352真壁光幹、常陸真壁郡山田郷内の田在家を、木曽小木曽庄下保の田在家と相博す、160
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平七年・北朝文和元年一二月二四日1352信濃国、所役を弁済せざるに依り、山城祇園社、節分心経会、行はれず、161
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平八年三月1353武蔵称名寺雑掌光信、重ねて、嶋津宗久跡代官並びに高梨経頼父子等の、同寺領水内郡太田庄大倉郷地頭職を違乱するを停め、寺家雑掌をして、所務を全うせしめられんことを、幕府に訴ふ、162
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平八年六月九日1353南党楠木正儀等、足利義詮の軍を山城神楽岡に破る、伴野長房等、義詮に属して合戦し討死す、164
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平八年七月五日1353小笠原長基、南党仁科右馬助・香坂美作守等と合戦し、軍功を顕す、是日、足利尊氏、之を褒す、165
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平八年八月二五日1353僧成俊、姨捨山の麓に、万葉集を注す、167
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平八年1353埴科郡屋代町出土の板碑成る、 この年代の銘ある南佐久郡大日向村工藤佐重氏・同郡野沢町阿部速雄氏舊蔵の板碑、168
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平九年四月一七日1354足利直冬、河原太郎右衛門尉に、石見国角井村等の地の地頭職を宛行ふ、仁科盛宗、之を奉ず、170
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平九年四月二八日1354法性、多重塔を佐久郡熊野社に寄進す、170
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平九年六月二七日1354足利尊氏の将石塔義基、諏訪二郎三朗をして、陸奥の南党討伐に合力せしむ、171
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平九年1354勇健大歇、美濃大円寺住持祖一峰翁、より印可を受く、172
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年一月三日1355勇健、大歇、美濃大円寺住持祖一峰翁、より払子を附与せらる、 勇健、八幡大菩薩を夢む、173
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年三月一二日1355小笠原政長、足利尊氏の軍に属し、南党足利直冬の軍を京都七条に攻めて、之を破る、175
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年四月八日1355是より先、足利尊氏、その母上杉清子十三回忌追善のために、禅律教僧をして一切経を書写せしめ、山城等持院に納む、信濃の僧周察、鑑渓、その書写校正の員に備はる、山城等持寺住持慈永、青山、慶讃の頌をつくり、緒禅僧之に和韻す、是日、山城崇福寺住持妙在、此山、慈永の請に応じて、その頌軸に序す、 妙在、山城崇福寺在住中に徳済鉄舟、より偈頌を寄せらる、176
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年五月二六日1355是より先、北党小笠原長基、南党上杉憲将・祢津宗貞等と戦ふ、是日、足利義詮、長基の戦功を賞し、併せて長基に同心せざる国人の交名を注進せしむ、180
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年六月三日1355南朝、矢嶋正忠を従五位下に叙す、181
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年八月二五日1355是より先、宗良親王、諏訪社上社並びに下社祝・仁科某等を率ゐて、小笠原長基の軍と信濃に戦ひ、信濃の貢馬、京都に到来せず、仍つて、北朝、駒牽を延引す、是日、之を追行す、 建武年中行事の記事中の信濃駒牽、 宗良親王、諏訪社下社実前に通夜し、また諏訪社に法楽して和歌を詠ず、182
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年九月六日1355伊那郡開善寺、洪鐘を鋳造し、同寺住持清誾、中山、その銘をつくる、 小県郡祢津普済寺、洪鐘を鋳造す、186
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年一〇月三日1355是より先、春日社領播磨志深庄雑掌源尊、同庄のことにつき、幕府に訴ふ、是日、同寺別当某、之を幕府奉行人諏訪円忠に吹挙す、189
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年一〇月一六日1355是より先、京都緒五山の尊宿、諏訪貞継のために道号頌を与ふ、是日、前南禅寺住持永璵、東陵、貞継の請に応じて、その道号頌軸に序す、191
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年一一月七日1355是より先、村上貞頼、山城平等院末寺善縁寺並びに同下司職を押領せんとす、是日、足利義詮、貞頼の奸訴を却け、三宝院賢俊をして、之を管領せしむ、193
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一〇年1355山城臨川寺住持契愚、柳渓、寂す、建仁寺住持妙在、此山、偈をつくりて之を悼む、194
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年二月一三日1356幕府的始、諏訪貞範等、射手を勤む、196
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年二月1356妙心寺住持慧玄、関山、門弟宗弼授翁、を印可す、197
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年八月三日1356諏訪円忠、諏訪社祭絵を再興せんとし、同社縁起の編目を注して、洞院公賢の意見を求む、尋で、公賢、神祇大副吉田兼豊に之を質し、円忠に答ふ、198