長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻六 (200頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年八月六日1356足利義詮、嶋津貞久をして、水内郡太田庄内南郷・大倉郷地頭職等の所領を安堵せしむ、203
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年一〇月九日1356足利義詮、小笠原政長跡同長基等一族に貢馬を徴す、205
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年一〇月二一日1356足利直義の党上杉憲将、高井郡に陣し、足利尊氏の党高梨某等と戦ふ、尋で、同郡小菅寺・平林等に戦ふ、206
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年一〇月二六日1356幕府、諸国関津に令して、園城寺造営料木を勘過せしむ、諏訪円忠等、之を奉ず、208
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年一一月二八日1356是より先、諏訪円忠、諏訪大明神画詞を再興す、是日、足利尊氏、之に奥書を加ふ、209
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年一二月一八日1356是より先、嶋津貞久、諏訪社を薩摩山門院に勧請し、同氏久、之を同郡鹿児島に移す、是日、氏久、同社に社領を寄進す、250
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一一年1356幕府、妙在此山、を建仁寺住持となす、尋で、妙在、入院す、251
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一二年二月九日1357洞院公賢、山城長福寺開山道皎月林、に国師号追諡のため、信濃の僧普門無関、覚心無本、祖円規庵、等に国師号追諡のことを先例として、勘申す、253
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一二年二月一三日1357幕府的始、諏訪貞範等、射手を勤む、254
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一二年五月二七日1357是より先、山城永円寺如導、無人、善光寺に詣でて、一夏の間説法す、是日、如導、寂す、尋で、妙在、此山、その頂相に賛す、255
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一二年六月三日1357鶴岡八幡宮寺供僧賢重寂す、258
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一二年七月1357是より先、勇健、大歇、建仁寺に徳見竜山、円月中厳、に見え、偈頌の応酬あり、是月、同寺を去りて伊予善昌寺に到り、同寺住持全岑大虫、に参ず、258
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一二年閏七月1357是より先、西寺別当深源、祐厳と同寺別当職を奉行人諏訪円忠のもとに争論す、円忠の病に依り、雑賀貞阿之にかはる、是月、深源、円忠平諭の上は、奉行人を円忠に復せられんことを幕府に訴ふ、259
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一二年九月二六日1357足利尊氏・同義詮、疎石夢窓、七年忌法要参列の次第につき、諏訪円忠をして、洞院公賢に問はしむ、261
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一二年一〇月二二日1357幕府、高梨永高をして、高井郡吉田郷等の地を領知せしむ、262
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年三月一二日1358佐久郡新海社の御魂代石成る、262
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年三月一六日1358僧了妙、水内郡沼尻琵琶嶋弁才天に大般若経を施入す、 この後了妙、大般若経を琵琶嶋弁才天に施入すること、及び年代不詳の奥書、263
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年三月二〇日1358幕府弓始、諏訪貞範等、射手を勤む、272
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年三月三〇日1358北朝県召除目、久我具通、信濃権守に任ぜらる、273
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年四月三〇日1358足利尊氏薨ず、尋で、諏訪円忠、遺骨のことにつき、洞院公賢に問ふ、274
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年五月二四日1358足利義詮、諏訪円忠をして、故足利尊氏の贈官のことを洞院公賢に問はしむ、274
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年六月四日1358諏訪円忠、洞院公賢に書を遺りて、足利尊氏位牌の書様のこと等を問ふ、275
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年七月一三日1358諏訪円忠、将軍足利義詮の除服以下のこと等につき、洞院公賢に問ふ、278
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年一一月1358建仁寺天潤庵塔主宗任、大用、景徳伝燈録を重刊せんとす、信濃の僧、妙在、此山、その幹縁疏をつくる、282
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年一二月二二日1358是より先、足利義詮、征夷大将軍に任ぜらる、是日、義詮、参賀し、諏訪信濃守等、之に供奉す、284
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年1358是より先、天龍寺焼け、同寺住持徳見竜山、退院す、是冬、妙在、此山、之に代りて同寺住持となる、286
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年1358是より先、信濃の僧良中、大本、元国より帰朝す、是歳、播磨法雲寺に掛搭し、詩をつくりて、子瑤上洛するを送る、288
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一三年1358神道集成る、その中に諏訪社等信濃に関する記事多く見ゆ、289