長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻六 (300頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年二月五日1359諏訪円忠、足利義詮参内の装束・行粧等のことにつき、先例を洞院公賢に問ふ、328
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年二月一七日1359幕府的始、諏訪貞範等、射手を勤む、331
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年二月二五日1359是より先、崇光天皇、天龍寺開山疎石夢窓、に普済国師の号を追諡し、四条隆蔭、勅使として同寺に赴く、是日、諏訪円忠、勅使入寺の謝礼についての先例を、洞院公賢に問ふ、331
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年二月1359天龍寺化主周信、義堂、同寺造営の募縁を終へて、同寺住持妙在此山、に幹縁疏を帰呈す、332
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年三月二五日1359北朝県召除目、八木重治、信濃権目に任ぜらる、333
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年三月二六日1359諏訪円忠、足利尊氏一周忌法華八講証義の請定の手続及び新千載和歌集に載せらるべき尊氏の和歌の位署のこと等につき、洞院公賢に問ふ、335
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年三月1359光林放牛、を南禅寺住持となす、天龍寺住持妙在、此山、諸山疏をつくりて之を賀す、336
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年四月一二日1359諏訪円忠、足利尊氏一周忌追善等持寺結縁灌頂の執綱・執蓋役人等のことにつき、先例を洞院公賢に問ふ、337
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年四月二三日1359諏訪円忠、足利尊氏一周忌追善法華八講につき、先例を洞院公賢に問ふ、339
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年四月二九日1359幕府、足利尊氏一周忌追善のため、庭儀・結縁灌頂を等持寺に行ふ、諏訪円忠、奉行を勤む、340
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年四月二九日1359後醍醐天皇妃藤原廉子(新侍賢門院)、崩ず、尋で、宗良親王、哀悼ノ歌を詠ず、342
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年六月1359東寺雑掌頼憲、飽間光泰の、同寺領播磨矢野庄重藤十六名並びに公文職を押領するを停めんがため、幕府奉行人諏訪円忠のもとに裁判せられんことを、幕府に訴ふ、343
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年八月1359天龍寺住持妙在、此山、偈をつくりて、その書状侍者祖曇雪山、の遊方に餞ず、345
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年一〇月二七日1359諏訪円忠、醍醐寺房玄を訪ふ、346
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年一二月一九日1359足利義詮、諏訪社下社大祝をして、天下静謐を祈らしむ、346
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年一二月二三日1359将軍足利義詮、後村上天皇を河内観心寺に討たんがため、諸将を率ゐ、京都を発し、摂津尼崎に陣す、諏訪直頼・摂津小次朗等、その軍に加はる、347
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一四年一二月1359勇健、大歇、伊豆修禅寺に大蔵経を閲読す、347
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一五年一月二三日1360山内資綱、子通綱に筑摩郡下平田郷内地頭職等の所領を譲る、348
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一五年三月一四日1360二条為定薨ず、尋で、宗良親王、哀傷の和歌五十首を詠ず、351
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一五年四月三日1360北党の将畠山義深、南党四条隆俊の軍を紀伊竜門山に攻む、諏訪祝部、北党に属し、祢津小次朗、南党に属す、352
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一五年五月二二日1360前開善寺住持明千、古鏡、寂す、354
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一五年六月二七日1360小笠原長基、高井郡志久見郷欠所地を、兵糧料所として、市河経助に預く、356
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一五年一二月一二日1360信濃の人、妙心寺開山慧玄、関山、寂す、356
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一五年1360後村上天皇、摂津住吉より、信濃の宗良親王に旨を伝へ、西上して京都攻略に合力せんことを促す、親王、冬期の木曽越の難きを以て、その延引を乞ふ、 前山城祇園社祠官静晴、山城八幡合戦の後、一旦北党に降り、尋で、脱れて宗良親王に参仕す、378
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年一月一二日1361信濃の僧妙心寺微笑庵塔主宗峨、雲山、同寺開山慧玄関山、の遺誡に跋す、380
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年三月二七日1361北朝除目、浦地浪康、信濃権少目に任ぜらる、382
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年四月二〇日1361沙弥道春、所領水内郡小嶋郷内の屋敷等を公忠に譲る、382
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年五月二四日1361僧覚明、孤峰、寂す、是より先、覚明信濃に住す、383
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年六月二一日1361近畿大地震に依り、摂津四天王寺金堂顛倒す、尋で、般若寺円海上人、勅命に依り、之を再建せんとし、上棟の轆轤の網に宛てんがため、皮むきを求めて信濃に下向せんとす、時に奇端ありて、難波浦に信濃皮むき漂着す、384
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年六月二七日1361諏訪貞継、卒す、385
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年一〇月一六日1361諏訪円忠の弟園城寺僧朝幸、寂す、387
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年一〇月一七日1361幕府、諏訪円忠をして、丹波畑庄欠所地のことを沙汰せしむ、388
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年一一月1361北党畠山国清、伊豆に叛す、尋で、国清の弟義深、信濃に向ひ、諏訪社上社大祝諏訪某と共に叛すとの風聞あり、389
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年一二月二六日1361足利義詮の軍、京都に迫る、京都の南党、信濃の宗良親王等諸国の南党の合力を得て、再起せんことを期し、一旦京都を退き、摂津住吉に奔る、389
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一六年1361勇健、大歇、和泉大雄寺に覚明孤峯、に見えて印可を受く、尋で、紀伊大慈寺住持となる、390
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一七年二月二三日1362是より先、慧星見はる、是日、足利基氏、小県郡科野大宮をして、之を祈禳せしむ、391
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一七年二月1362健二寺如是院主妙在、此山、易書記の請に応じて頂相に自讃を加ふ、392
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一七年六月1362南党桃井直常、信濃より越中に兵を進め、更に加賀の富樫氏を攻む、392
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一七年八月五日1362是より先、諏訪貞継、天野遠政と能登能登嶋御厨東方、地頭職を争ふ、是日、能登守護吉見氏頼、貞継の押領を退け、遠政をして安堵せしめられんことを幕府に請ふ、393
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一七年八月一五日1362後村上天皇、摂津住吉に中秋の名月を賞して和歌を詠じ、之を信濃の宗良親王に贈る、尋で、親王、返歌を上る、 宗良親王、後村上天皇と和歌を贈答す、394
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一八年一月四日1363南禅寺住持妙在此山、同寺維那寮の回向冊子に跋す、396
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一八年一月一四日1363幕府弓始、諏訪貞範等、射手を勤む、397
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一八年閏一月二六日1363是より先、幕府、諏訪円忠をして、河原院の申請にかかる造営関所につき沙汰せしむ、是日、北朝記録所、幕府の同意を得て文殿中に再び之を裁す、398
南朝後村上 北朝後光厳南朝正平一八年二月七日1363炎旱に依り、木曽川等の河水涸れ、伊勢皇大神宮仮遷宮の造営用材滞留す、仍りて、是日、祈雨奉幣使を丹生・貴船両社に遣はす、399