長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻六 (500頁~)
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南朝長慶 北朝後光厳
南朝正平二三年
1368
勇健、大歇、大和定祖庵に隠居す、
503
南朝長慶 北朝後光厳
南朝正平二三年
1368
小笠原長秀、将軍足利義満の旨をうけて、今川氏頼・伊勢満忠等と共に、三議一統を撰述す、
503
南朝長慶 北朝後光厳
南朝正平二四年一月二八日
1369
幕府的始、屋代蔵人大夫等、射手を勤む、
504
南朝長慶 北朝後光厳
南朝正平二四年八月二二日
1369
水内郡飯縄山地蔵菩薩像成る、
505
南朝長慶 北朝後光厳
南朝正平二四年一〇月
1369
上杉朝房等、伊那郡大河原に、宗良親王を攻む、
506
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年二月九日
1370
南党新田義宗の将馬淵某・中村某・上杉朝房・畠山基国等と武蔵本田に戦ひ、敗れて信濃に奔る、尋で、馬淵等、信濃に兵を挙げ、朝房等、兵を進めて之を破る、
507
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年四月三日
1370
信濃守護小笠原長基、水内郡常岩御牧南条五箇村を、市河頼房に預く、
508
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年六月八日
1370
上杉朝房、旨をうけ、藤井下野入道をして、水内郡常岩南条・後閑・水沢・有尾・中曽祢等の地を安堵せしむ、
509
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年六月二三日
1370
経秀、長講堂領但馬七美庄上方の内友真・包弘両名を、妙心寺開山慧玄関山、の塔所微笑庵に寄進す、
510
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年六月
1370
南禅寺住持妙在、此山、祖禅定山、の一以大道、を悼む偈に、東福寺僧衆の和韻せる頌軸に跋す、
510
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年七月四日
1370
善光寺焼く、
512
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年一一月一五日
1370
高梨朝高、高井郡安田郷並びに水内郡大倉郷を宛行はる、
512
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年一二月一八日
1370
是より先、妙在、此山、至勲の帰郷を送る頌をつくり、徳済、鉄舟、之を和韻す、是日、至勲、その偈頌を相模瑞泉寺住持周信義堂、に示す、
513
南朝長慶 北朝後光厳
南朝建徳元年
1370
諏訪広嗣、その父故円忠の七周忌仏事を営む、
514
南朝長慶 北朝後円融
南朝建徳二年閏三月二九日
1371
僧存覚、本願鈔を書写し、水内郡善教寺付す、
516
南朝長慶 北朝後円融
南朝建徳二年四月
1371
道妙、鉄剣を鋳造し佐久郡松原明神に寄進す、
517
南朝長慶 北朝後円融
南朝建徳二年一〇月三日
1371
直仁親王、伊賀長田庄の替として、近江伊香庄内古橋郷を妙心寺玉鳳院に寄進す、時に同院塔主は信濃の僧宗峨雲山、なり、
517
南朝長慶 北朝後円融
南朝建徳二年一二月
1371
是より先、懐良親王、信濃の宗良親王に、九州より和歌を贈る、是月、宗良親王、之に答ふ、
518
南朝長慶 北朝後円融
南朝建徳二年
1371
信濃の僧東源、帰郷す、諸友詩偈を唱和して、之に贈る、尋で、相模報恩寺住持周信、堂義、東源の請に応じて、その送別の詩軸に序す、 信濃の僧、是杲日峰、雪松・希南・乾機晦室、志上人等、帰郷す、
519
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中元年二月
1372
幕府、師振起山、を山城真如寺の住持となす、妙在、此山、山門疏をつくりて、その駕を迎ふ、
526
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中元年五月
1372
建仁寺如是院主妙在、此山、周防高山寺住持賢仙某山、の頂相に賛す、
527
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中元年七月五日
1372
前建仁寺住持良聡、聞渓、寂す、
528
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中元年七月一五日
1372
建仁寺如是院主妙在、此山、同寺前住持仁球石麟、の頂相に賛す、
533
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中元年九月一五日
1372
幕府、諏訪郡小井川・山田両郷を諏訪兵部大輔入道に預く、
534
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中元年
1372
信濃の僧曇仲、霊芳、その師興伊大円、に随侍して、上野に赴く、 曇仲の事蹟、
535
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年四月一七日
1373
是より先、建長寺天津橋新造成り、同寺の諸僧、偈をつくりて之を賀す、是日、同寺前住持善玖、石室、信濃の僧妙霖雷峰、を使として、相模報恩寺住持周信義堂、に、その頌軸に序せんことを求む、
538
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年四月一七日
1373
是より先、至鈍大徹、伊那郡飯島に西岸寺を再興す、是日、幕府、同寺を諸山に列す、尋で、至鈍及び堅瑛藍田、同寺の規式を定む、
539
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年五月一二日
1373
佐久郡津金寺の良慶、善光房、穩海、天台円宗四教五時の名目を著す、
554
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年五月一六日
1373
経秀、長講堂領但馬七美庄上方の内萩山名を妙心寺開山慧玄関山、の塔所微笑庵に寄進す、
557
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年六月三日
1373
丹後雲門寺住持妙葩、春屋、実際寺に遊び、その門弟昌霖、梅岩、詩を賦す、信濃の僧周察、藍渓、之を和韻す、
558
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年六月
1373
信濃守護使重義等、高井郡志久見郷の国司初任正検田在家目録を注進す、
561
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年七月
1373
明使朱本、詩を丹後雲門寺住持妙葩春屋、に贈る、妙葩、その韻を和す、周察、藍渓、また妙葩の韻を和す、 周察の事蹟、
562
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年九月三日
1373
後光厳上皇、妙心寺開山慧玄関山、の塔所微笑庵主宗峨雲山、をして、同庵領但馬七美庄上方内友真・包弘・萩山の諸名を安堵せしむ、
566
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年九月一三日
1373
中円、月憚、京都より鎌倉に帰り、妙在此山、の書信を相模報恩寺義堂、に伝達す、
568
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年一一月一四日
1373
造豊受大神宮御杣美濃白河山採取の用材、伊勢大湊に着く、
568
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年
1373
南党新田義宗等、上野新田より、信濃を経て、四国に奔る、
569
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中二年
1373
天誾、如仲、伊那郡上穂山に恵明について経典を習ふ、
569
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中三年一月二七日
1374
是より先、印元、古先、信濃盛興寺を開創す、是日、印元、寂す、
570
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中三年六月
1374
嶋津伊久代官本田泰光、重ねて、水内郡太田庄内南郷・大倉郷等の所領安堵を幕府に吹挙せられんことを、九州探題今川貞世に請ふ、
574
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中三年八月
1374
是より先、霊見、性海、一清無夢、の遺偈を分けて長句を賦し、之を悼む、是日、信庵の請に応じて、之を書与ふ、
575
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中三年九月二日
1374
幕府、関東執事上杉能憲をして、武蔵称名寺内敷地のことにつき、村上正貞を吹挙せしむ、
576
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中三年一一月
1374
東福寺住持霊見、性海、東福寺の徒、孝上人の請に応じて、重顕隠之、の頂相に賛す、
577
南朝長慶 北朝後円融
南朝文中三年
1374
宗良親王、信濃を出でて、吉野に到る、 親王の和歌の中、信濃に関係するものにして、年次詳かならざるもの、
578