長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻七 (200頁~)
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南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中五年一二月二六日
1388
信濃守護斯波義将、右衛門蔵人某をして、水内郡大滝村等の譲得・買得の所領を安堵せしむ、
200
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中六年一月一七日
1389
幕府的始、屋代師国等、射手を勤む、
201
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中六年二月二〇日
1389
諏訪社上社副祝某、卒す、
202
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中六年
1389
東福寺退畊庵主霊見、性海、退居偶成の詩を長遠韶陽、に贈る、 霊見の庵中起居の事蹟
202
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中六年八月三日
1389
明阿弥陀仏、小県郡国分寺内田在家を、河内入道に譲る、
205
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中六年八月
1389
下伊那郡神原村坂部観音堂の鰐口、成る、
206
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中七年一月一七日
1390
幕府的始、屋代師国等、射手を勤む、
206
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中七年三月
1390
中山満親、信濃権介に任ぜらる、
207
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中七年三月
1390
更級郡興禅寺の梵鐘成る、
207
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中七年
1390
東福寺退畊庵主霊見、性海、餞偈を賦して、士旭日山、の日向大光寺住持となりて、その任に赴くに贈る、
210
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中七年七月一二日
1390
僧大樹、華厳経を、佐久郡大井庄慈寿寺帰元庵に書写す、
211
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中七年九月七日
1390
小県郡海禅寺南光坊法名闕く、大乗大方等日蔵経を書写す、 筑摩郡片丘村常光寺所蔵の経巻
211
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中七年九月一五日
1390
僧栄順、筑摩郡光輪寺の大般若経を書写す、 明誉等書写の、光輪寺の大般若経
212
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中七年
1390
僧時芸、綽如、越中瑞泉寺を剏む、信濃等の門徒等、之を助く、
220
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中八年一月一七日
1391
幕府的始、屋代師国等、射手を勤む、
221
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中八年一月一八日
1391
東福寺退畊庵主霊見、性海、僧印正の請に応じて、同門南禅寺済北庵の徒陵泬寥天、の頂相に賛す、
222
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中八年一月二六日
1391
東福寺退畊庵主霊見、性海、同寺永明院の徒明紹業仲、の請に応じて、その師一以大道、の頂相に賛す、
223
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中八年一〇月二七日
1391
山城三聖寺住持霊見、性海、同寺仏殿上梁銘を書す、
224
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中八年一二月三〇日
1391
小笠原清順、長基、幕府の軍に属し、京都内野合戦に功を顕す、
226
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中九年一月一七日
1392
幕府的始、屋代師国等、射手を勤む、
227
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中九年三月
1392
高梨朝高、高井郡安田郷等の所領を安堵せられんことを、幕府に請ふ、
228
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中九年六月一二日
1392
是より先、久我具通、同家知行の信濃国国衙正税を、東大寺鎮守八幡宮に寄進せんとして、勅裁を得、是日、足利義満、同社をして、之を安堵せしむ、 東大寺文書中、信濃国衙正税に関する年次不明の文書
233
南朝後亀山 北朝後小松
南朝元中九年八月二八日
1392
足利義満、相国寺落慶供養に臨む、小笠原長秀等、供奉を勤め、信濃の僧山城臨川寺住持昌立、季成、請僧として、法華経一巻を転読す、 昌立の事蹟 周煙古庵、周登岳雲、安国寺に住院す、
236
後小松
明徳四年一月一七日
1393
幕府的始、屋代師国等、射手を勤む、
259
後小松
明徳四年三月一二日
1393
某、埴科郡坂城南条・十蔵郷並に水内郡檬原庄等の地を、小笠原辰寿丸に宛行ふ、
260
後小松
明徳四年
1393
能登定光寺住持良秀、実峰、安曇郡に霊松寺を開創す、
260
後小松
明徳四年七月
1393
是より先、屋代師国、青蓮院門跡領山城粟田庄下司職を押領す、是日、同院公文所、師国の非分を却け、同職を同院に還付せられんことを、幕府に訴ふ、
264
後小松
明徳四年八月二二日
1393
南禅寺焼け、同寺開山普門無関、の塔院天授庵も類焼す、尋で、東福寺退畊庵主霊見、性海、勧縁して之を再興す、
265
後小松
明徳四年八月
1393
下水内郡太田村五束の宝篋印塔、成る、
266
後小松
明徳四年一〇月七日
1393
幕府、天竜寺雑掌の訴により、備中守護細川満之をして、同国成羽庄に三村信濃入道余類の濫妨するを停止せしむ、
266
後小松
明徳四年
1393
東福寺退畊庵主霊見、性海、自画の頂相に自賛を加ふ、
267
後小松
応永元年一月一七日
1394
幕府的始、幕府、屋代師国、酩酊して射手を勤むるを罰し、その所帯を没収す、
268
後小松
応永元年二月一五日
1394
赤須為幸、伊那郡赤須郷公田惣田数を注す、
270
後小松
応永元年四月
1394
東福寺退畊庵主霊見、性海、細川満春の請により、一以大道、の頂相に賛す、
271
後小松
応永元年七月
1394
東福寺退畊庵主霊見、性海、伊予常定寺前住重淵回塘、の頂相に賛す、
272
後小松
応永元年
1394
東福寺退畊庵主霊見、性海、頂相に自賛を加ふ、
272
後小松
応永二年一月一七日
1395
幕府的始、屋代師国等、射手を勤む、
274
後小松
応永二年一月
1395
上水内郡信州新町の宝篋印塔、成る、 この年代の銘ある長野市上松松寿荘・同小市称名寺・上水内郡小川村小根山・長野市箱清水善光寺・上水内郡戸隠村戸隠神社・小県郡滋野村中屋敷・小県郡傍陽村穴沢・長野市箱清水内田国松氏所蔵の宝篋印塔銘
275
後小松
応永二年二月二八日
1395
下伊那郡平岡村の鰐口、成る、
279
後小松
応永二年四月一一日
1395
諏訪社上社祢宜勝間某、前宮阿弥陀堂に於て殺害せらる、
279
後小松
応永二年七月二五日
1395
北佐久郡小沼村真楽寺の金剛力士像、成る、
280
後小松
応永二年
1395
信濃の僧融珪、璋山、豊後泉福寺に住す、
282
後小松
応永二年
1395
山城常在光院住持霊見、性海、柿本人麻呂の像に賛す、
284
後小松
応永三年一月一七日
1396
幕府的始、屋代師国等、射手を勤む、
284
後小松
応永三年二月二八日
1396
関東管領足利氏満、小山若犬丸・田村清包等の陸奥に叛くを討たんとして、鎌倉を発す、小笠原一族等、之に加はる、
285
後小松
応永三年三月二一日
1396
信濃の僧前山城三聖寺・東福寺・天竜寺・南禅寺住持、山城常在光院住持霊見、性海、寂す、
286