長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻七 (300頁~)
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後小松
応永三年五月六日
1396
足利義満、美濃中河地頭職を、小笠原長秀に還付す、
303
後小松
応永三年五月二六日
1396
更級郡八幡宮の梵鐘、成る、
304
後小松
応永三年六月一四日
1396
仁科盛房、安曇郡仁科神明の式年造営を行ひ、是日、遷宮を行ふ、
305
後小松
応永三年七月二〇日
1396
南禅寺開山塔天授庵の徒生会、雲荘、同寺開山普門無関、の行状及び普門所撰の文応皇帝外記を書写す、
307
後小松
応永三年
1396
是より先、融珪、璋山、豊前護聖寺を開創す、是歳、融珪、豊後泉福寺を退院して、護聖寺に再住す、
307
後小松
応永四年一月一日
1397
諏訪社上社、本年神使頭番役を、諏訪郡小坂郷並に小県郡祢津郷に充つ、
308
後小松
応永四年四月八日
1397
諏訪社上社、高井郡中村郷並に井上郷をして、本年花会御堂頭番役を勤仕せしむ、
310
後小松
応永四年七月二日
1397
信濃守護斯波義将、市河頼房知行分山の巣鷹に違乱する者の非法を禁ず、
311
後小松
応永四年七月五日
1397
南党某、水内郡静間郷地頭職を、中野中務少輔に宛行はんとす、
312
後小松
応永四年七月二九日
1397
諏訪社上社、明年同社御射山祭加頭番役を、埴科郡船山郷に充つ、
312
後小松
応永四年一〇月一三日
1397
山城妙光寺住持明麟、聖徒、同寺開山覚心無本、心地房、の百年忌仏事を営み、足利義満の旨を承けて、相国寺住持中津絶海、をして陞座説法せしむ、紀伊興国寺西方寺、住持某及び同寺思遠庵塔主某もまた、同寺開山覚心の年忌仏事を営み、前相国寺住持明応空谷、を請じて、陞座説法せしむ、
314
後小松
応永四年一〇月一七日
1397
諏訪有継、諏訪社上社大祝の位に卽く、
332
後小松
応永四年一一月二四日
1397
諏訪湖上に諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
335
後小松
応永四年
1397
更級郡昭和村の青面金剛石仏、成る、
336
後小松
応永五年三月二四日
1398
県召除目、秦治徳、信濃大目に任ぜらる、 吉田兼敦、信濃権守に任ぜらる、
337
後小松
応永五年七月二六日
1398
斯波義重、筑摩郡高出村を諏訪社上社に寄進す、
338
後小松
応永五年八月二四日
1398
足利義満、安曇郡住吉庄及び春近領を小笠原長秀に還付す、
339
後小松
応永五年九月二四日
1398
諏訪社上社大祝諏訪頼寛、頼継、平井弖に戦ひて勝つ、 諏訪社上社神使外県介祢宜の精進屋の御左口神焼く、
339
後小松
応永五年
1398
南禅寺雲門庵の徒真玄、要中、太白、信濃の僧明中の帰郷を送る詩軸に序す、
340
後小松
応永五年一一月四日
1398
是より先、関東管領足利氏満、病み、子満兼等、諏訪社等にその平癒を祈る、是日、氏満、卒す、
341
後小松
応永五年
1398
足利義満、幕府職制を定む、小笠原・武田両氏、共に弓馬礼式奉行となる、
342
後小松
応永六年五月一〇日
1399
足利義満、小笠原長秀をして、信濃春近領を安堵せしむ、
343
後小松
応永六年一〇月一〇日
1399
小笠原政康、右馬助に任ぜらる、
344
後小松
応永六年一〇月二一日
1399
是より先、嶋津国忠、小笠原長秀の信濃守護として入部するを肯んぜず、是日、長秀、赤沢秀国・櫛置清忠等をして、国忠を水内郡石渡に攻めしむ、市河興仙、頼房、長秀の軍に参ず、
344
後小松
応永六年一一月六日
1399
是より先、大内義弘、和泉に叛す、是日、小笠原長秀、幕府の召に応じ、市河興仙頼房、等を催して伊那郡伊賀良庄を発す、
346
後小松
応永六年一一月一五日
1399
市河興仙、頼房、小笠原長秀の催促に応じ、長秀の軍に属さんとして在所を発す、尋で、大内義弘の党土岐詮直に、美濃釜戸に阻まれて、空しく帰国し、再び北国より上洛を図らんとす、
347
後小松
応永六年一一月二八日
1399
足利義満、小笠原政康をして、信濃守護小笠原長秀に属し、大内義弘を討たしむ、
348
後小松
応永六年一二月一〇日
1399
是より先、足利義満、小笠原長秀をして、京極高詮と共に、近江に出陣せしめんとす、是日、義満之を改め、長秀をして、畠山基国の軍に従ひ、和泉堺に大内義弘を攻めしむ、
348
後小松
応永六年一二月二七日
1399
是より先、中野頼兼、小笠原長秀に属し、和泉堺に、大内義弘の軍と戦ひて疵を受く、是日、頼兼、軍忠状に証判を請ふ、
352
後小松
応永七年一月一七日
1400
幕府的始、村上掃部助等、射手を勤む、
353
後小松
応永七年三月一六日
1400
幕府、山城海蔵院雑掌の訴に依り、信濃守護小笠原長秀をして、同院領水内郡太田庄領家職の押領人を退け、同職を雑掌に渡付せしむ、
354
後小松
応永七年四月二一日
1400
是より先、市河興仙、頼房、高井郡烏帽子形城を攻めて、小笠原長秀に忠勤を励む、是日、興仙、前年来の軍忠を長秀に注進し、その証判を請ふ、
356
後小松
応永七年五月二七日
1400
信濃守護小笠原長秀、市河義房の軍忠を賞し、水内郡若槻新庄加佐郷庶子分を宛行ふ、
357
後小松
応永七年六月二日
1400
信濃守護小笠原長秀、市河興仙頼房、をして、高井郡中野西条村内及び水内郡若槻新庄加佐郷内・同静妻郷内の地等を安堵せしむ、
359
後小松
応永七年六月一一日
1400
信濃守護小笠原長秀、諏訪社下社大祝をして、筑摩郡春近領塩尻東西・小池東西・新村南方等を安堵せしむ、
362
後小松
応永七年七月二一日
1400
信濃守護小笠原長秀、和泉より帰国し、是日、佐久郡大井光矩の館に、一国成敗のことを光矩と談じ、使者を以て国人にこの旨を触れしむ、尋で、村上満信・大文字一揆等、これを拒み、幕府に守護を改補せられんことを請ふ、
362
後小松
応永七年八月五日
1400
足利義満、小笠原長秀の請により、美濃守護土岐頼益をして、同国中河荘地頭職に、守護役等を免ぜしむ、
366
後小松
応永七年八月
1400
是より先、信濃守護小笠原長秀、善光寺に国務を始むるにあたり、非拠の新儀多し、是月、村上満信等国人、一揆して、長秀に叛す、
366
後小松
応永七年九月二四日
1400
信濃守護小笠原長秀、善光寺を発し、是日、村上満信等の軍と更級郡四宮河原に戦ふ、尋で、長秀、破れて同郡塩崎城に逃れ、その将坂西長国もまた、同郡大塔に奔る、
375
後小松
応永七年一〇月一七日
1400
是より先、小笠原長秀の部将坂西長国等、更級郡大塔に篭城して、祢津遠光等大文字一揆等と戦ふ、是日、長国の軍、敗れて、多く戦死す、
387