長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻七 (500頁~)
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称光
応永二〇年一月二五日
1413
信濃の僧南禅寺首座有諸、無漏、大有、天下南禅寺記を撰述す、
499
称光
応永二〇年六月四日
1413
水内郡大安寺住持大徹、寂す、
500
称光
応永二〇年九月一一日
1413
善光寺金堂修造成り、是日、落慶法養を行ふ、
501
称光
応永二〇年一〇月八日
1413
伊那郡の人宗和、玄涼、卒す、
502
称光
応永二〇年一〇月一七日
1413
下伊那郡神原村八幡社の鰐口、成る、
502
称光
応永二一年一月一七日
1414
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
502
称光
応永二一年七月一八日
1414
焦仙、鰐口を高井郡今里宝績寺に寄進す、
503
称光
応永二二年一月一七日
1415
幕府的始、村上三河守等、射手を勤む、
504
称光
応永二二年六月二五日
1415
市河越中守、須田為雄討伐の軍に加はる、尋で、幕府、その軍忠を褒す、
504
称光
応永二二年八月二七日
1415
小笠原某、畠山常忠と山城今比叡社笠懸馬場に闘諍し、共に死す、
505
称光
応永二二年一二月五日
1415
足利義持、安曇郡住吉庄並に春近領を小笠原正捷長秀、に還付す、 大文字一揆、正捷の住吉庄・春近領の知行を停められんことを幕府に訴ふ、
506
称光
応永二三年一月一七日
1416
幕府的始、村上三河守等、射手を勤む、
509
称光
応永二三年六月一四日
1416
仁科盛房、安曇郡仁科神明の式年造営を行ひ、是日、遷宮を行ふ、
510
称光
応永二三年八月三日
1416
仁科某、八朔の礼として、太刀等を貞成王後崇光院、に献ず、
512
称光
応永二三年八月
1416
上杉禅秀、氏慶、足利満隆と共に、関東管領足利持氏に叛し兵を集む、小笠原一族等、之に応ず、
512
称光
応永二三年一〇月二三日
1416
信濃の僧豊前護聖寺開山融珪、璋山、寂す、
514
称光
応永二三年一二月一九日
1416
佐竹義憲、幕府の命により、上杉禅秀氏憲、等を討たんがため越後を発し、是日、臼井峠に至る、
520
称光
応永二三年一二月三〇日
1416
足利義持、小笠原政康をして、本知行を安堵せしむ、
520
称光
応永二四年一月一七日
1417
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
521
称光
応永二四年一月二三日
1417
足利義持、小笠原政康の上杉禅秀氏憲、討伐の功を褒す、
522
称光
応永二四年七月一日
1417
尼全従、水内郡沼尻弁才天社の大般若経を修補す、
523
称光
応永二五年一月一七日
1418
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
524
称光
応永二五年二月二一日
1418
是より先、足利義持、武田信元を甲斐守護となし、小笠原政康と共に下国せしむ、是日、義持、政康をして、信元の甲斐領治に合力せしむ、
525
称光
応永二五年九月九日
1418
足利義持、安曇郡住吉庄並に春近領を小笠原政康に還付す、
526
称光
応永二五年一〇月二八日
1418
足利義持、小笠原政康の甲斐守護武田信元の為めに尽瘁するを褒し、併せて政康をして、信元の甲斐南部下山辺に入部するを援けしむ、
527
称光
応永二五年
1418
波多腰清勝、筑摩郡牛伏寺の堂並に釈迦如来像を修理す、
528
称光
応永二六年一月一七日
1419
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
528
称光
応永二六年三月一四日
1419
足利義持、甲斐武田信元の請に依り、小笠原政康をして、信元に合力せしむ、 政康、義持に太刀等を献じ、義持もまた、太刀等を政康に贈る、
529
称光
応永二七年一月一七日
1420
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
531
称光
応永二七年一〇月一四日
1420
上田市上塩尻出土の板碑、成る、 埴科郡屋代町唐木善武氏旧蔵の板碑銘
532
称光
応永二八年一月一三日
1421
山城妙光寺歳寒庵塔主一大、遠芳、同寺開山覚心無本、心地房、の法語を書写す、
533
称光
応永二八年一月一七日
1421
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
533
称光
応永二八年一月一八日
1421
足利義持、射的を覧る、屋代師国等、射手を勤む、
534
称光
応永二八年一一月一三日
1421
足利義持、病気平癒を謝せんがため、屋代師国等を豊受大神宮に遣はす、
534
称光
応永二八年一二月二五日
1421
幕府、僧忠意をして、京都禅林寺若王子社別当職並に同社領高井郡小菅庄・水内郡若槻庄等を安堵せしむ、
535
称光
応永二八年
1421
源為治、信濃権守に任ぜらる、
535
称光
応永二八年
1421
信濃の僧南江、諏訪郡安国寺住持となる、 南江の師周登岳雪、の事蹟
536
称光
応永二八年
1421
波多腰清勝、筑摩郡牛伏寺の大威徳明王像を修理す、
541
称光
応永二九年三月二六日
1422
波多腰清勝、筑摩郡牛伏寺の奪衣婆像を造立す、
542
称光
応永二九年四月四日
1422
諏訪社上社御柱立神事延引す、尋で、之を追行す、
542
称光
応永二九年七月
1422
木曽定勝寺僧正心、同寺の年貢納下帳を注す、
544
称光
応永二九年八月三〇日
1422
僧行俊、埴科郡青沼南方年貢三分一の内半分を、弟僧信方に譲る、
548
称光
応永二九年九月二四日
1422
足利義持、病気平癒を謝せんがため、小笠原持長等を伊勢大神宮に遣はす、
549
称光
応永二九年一一月
1422
下伊那郡大鹿村の鰐口、成る、
549
称光
応永三〇年一月一七日
1423
幕府的始、小笠原持長等、之に参仕す、
550
称光
応永三〇年七月一〇日
1423
関東管領足利持氏、幕府に叛す、是日、幕府、市河義房をして、小笠原政康等に随ひ、持氏を討たしむ、
550
称光
応永三〇年八月一八日
1423
幕府、下野山入祐義に、小笠原政康等信濃勢の上野発向のこと等を報ず、
551
称光
応永三〇年八月一九日
1423
幕府、足利持氏誅伐のため、小笠原政康をして、臼井峠より兵を発し、上野に向はしむ、
552
称光
応永三〇年一〇月一〇日
1423
管領畠山道端、満家、小笠原政康に書を遣り、政康の軍の臼井峠到着を期して、武蔵・上野両国の一揆の之に応ずべき計略を報ず、
553
称光
応永三〇年一一月一六日
1423
足利義持、小笠原政康・高梨朝秀の足利持氏討伐の功を賞し、埴科郡春近領内舟山郷を政康に宛行ふ、
554
称光
応永三〇年一二月一九日
1423
小笠原政康、上野に発向す、尋で、足利義持、之を褒す、
556
称光
応永三一年二月五日
1424
足利義持、関東管領同持氏と和するに依り、信濃・甲斐等の兵を徹せしむ、
557
称光
応永三一年二月二五日
1424
諏訪満有、諏訪社上社大祝の位に即く、
557
称光
応永三一年一〇月九日
1424
小笠原政康、諏訪社下社大祝をして、同社領筑摩郡春近領塩尻東西・小池東西・新村南方等を安堵せしむ、
558
称光
応永三一年一二月二二日
1424
本願寺玄康、巧如、水内郡長沼淨興寺性順に、空覚書写の顕名鈔を授く、 空覚、淨土見聞集・決智鈔等を性順に与ふ、
558
称光
応永三一年
1424
悦堂、諏訪郡安国寺住持となる、
561
称光
応永三二年一月一七日
1425
幕府弓始、屋代時貞等、射手を勤む、
562
称光
応永三二年二月三日
1425
小笠原政康、大膳大夫に任ぜらる、 足利義持、政康の物を贈るを謝す、
562
称光
応永三二年二月九日
1425
臼田定勝、小県郡海野庄内田中郷惣領職等を、孫貞氏に譲る、
564
称光
応永三二年二月一五日
1425
本願寺円兼、存如、法華問答集を書写し、水内郡長沼淨興寺性順に授く、
565
称光
応永三二年三月一五日
1425
小笠原正捷、長秀、卒す、
566
称光
応永三二年七月四日
1425
南佐久郡野沢町仁王堂の石造燈篭、成る、
574
称光
応永三二年八月一二日
1425
藤原経吉、水内郡白山権現の本殿を造立す、
574
称光
応永三二年八月一四日
1425
善光寺炎上の風聞、京都にあり、
576
称光
応永三二年八月
1425
本願寺円兼、存如、親鸞上人絵詞・浄土真要鈔・諸神本懐集・持名鈔・教化集・安心決定鈔を書写し、水内郡長沼淨興寺性順に授く、
576
称光
応永三二年一二月二九日
1425
幕府、小笠原正透政康、を、信濃守護に補す、
579
称光
応永三三年八月二七日
1426
是より先、信濃守護小笠原正透、政康、初めて信濃に入部す、是日、足利義持、太刀を贈りて、之を祝す、
580
称光
応永三三年一〇月一六日
1426
是より先、諏訪の人某、白鷹を捕へて之を細川満元に贈り、満元その貌を図せしめ、山城岩栖院主霊彦希世、相国寺僧周鳳瑞渓、をして、之に賛せしむ、是日、満元、卒す、
581
称光
応永三三年一〇月
1426
善光寺供養、
583
称光
応永三三年一一月二日
1426
足利義持、山城海蔵院をして、同院領水内郡太田庄等を安堵せしむ、
584
称光
応永三四年二月一八日
1427
是より先、足利義持、信濃守護小笠原正透政康、の上洛を促す、是日、義持、之を停め、正透をして、同国々人の越後発向を催促せしむ、 義持、政康の物を贈るを謝す、
585
称光
応永三四年三月一〇日
1427
善光寺焼く、
587
称光
応永三四年六月二九日
1427
足利義持、信濃守護小笠原正透政康、をして、重ねて同国人の越後発向を催促せしむ、
588
称光
応永三四年八月二九日
1427
幕府、伊那郡開善寺を十刹に列し、信濃の僧清禅、伯元、を同寺住持となす、
589
称光
応永三四年九月八日
1427
本願寺玄康、巧如、水内郡淨興寺周観に口伝鈔を授く、 玄康、親鸞上人絵詞を周観に、教行信証を芸範に授く、
592
称光
応永三四年一〇月二六日
1427
足利義持、小笠原正透政康、に令して、越後国堺まで出向せしむ、
593