長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻七 (400頁~)
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後小松
応永七年一〇月二〇日
1400
村上満信・大文字一揆等、更級郡四宮に小笠原長秀を攻む、尋で、同郡塩崎城に攻めて之を破る、大井光矩、和を斡旋し、長秀、京都に奔る、
401
後小松
応永七年一〇月二九日
1400
信濃守護小笠原長秀、市河興仙頼房、をして、高井郡志久見山・水内郡常岩中条・中曽祢郷内小穴河・平滝等の地を安堵せしむ、
408
後小松
応永八年一月一七日
1401
幕府的始、屋代蔵人等、射手を勤む、
409
後小松
応永八年二月一七日
1401
斯波義将、信濃守護に補せらる、
410
後小松
応永八年三月二四日
1401
県召除目、十市定之、信濃少掾に任ぜらる、
411
後小松
応永八年四月三日
1401
諏訪氏泰、諏訪社上社大祝の位に即く、
412
後小松
応永八年四月五日
1401
信濃守護代嶋田常栄、信濃に下向す、
412
後小松
応永八年五月二四日
1401
堀内入道某、善光寺に参詣す、
413
後小松
応永八年六月二五日
1401
信濃守護斯波義将、市河興仙頼房、をして、高井郡志久見山等の所領を安堵せしめ、併せて、守護代嶋田常栄をして、高梨・須田・井上等国人の、高井郡中野西条を押領するを停め、之を興仙に渡付せしむ、
413
後小松
応永八年八月二五日
1401
下伊那郡富草村八幡社の神像、成る、
415
後小松
応永九年一月一七日
1402
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
415
後小松
応永九年三月二八日
1402
県召除目、高橋富里、信濃掾に、椿戸花棟、同権目に任ぜらる、
416
後小松
応永九年五月一四日
1402
幕府、信濃国を幕府料国と定め、飯尾左近将監等を代官として、下向せしむべきことを、市河興仙頼房、に告ぐ、
417
後小松
応永九年八月二八日
1402
幕府、信濃国代官飯尾左近大夫等に命じて、東大寺の信濃国衙領知行の実否を注進せしむ、
418
後小松
応永九年九月一七日
1402
幕府の信濃代官細川慈忠、幕府の旨を受け、市河興仙頼房、をして高井郡志久見山等の地を安堵せしむ、
419
後小松
応永九年九月二一日
1402
佐久郡平賀の僧宗椿、同郡熊野社に神鏡を寄進す、
420
後小松
応永一〇年一月一七日
1403
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
421
後小松
応永一〇年六月一〇日
1403
水内郡粟野神等の神事過穢あるに依り、崇あり、是日、御体と奏あり、
422
後小松
応永一〇年七月二日
1403
足利義満、市河興仙頼房、をして、その所領を安堵せしむ、
424
後小松
応永一〇年七月二四日
1403
是より先、幕府の信濃国代官細川慈忠、信濃に入部す、国人村上満信等、之に従はず、是日、市河氏貞、慈忠の軍に属し、満信等と更級郡壇原に戦ひ疵を受く、尋で、また慈忠に従ひ、之を埴科郡生仁城に攻め、更に更級郡塩崎新城に攻めて、之を陥る、 細川慈忠、市河某に書を送りて、物を贈らるることを謝す、
424
後小松
応永一一年一月一七日
1404
幕府的始、村上掃部助等、射手を勤む、
427
後小松
応永一一年
1404
能登定光寺住持良秀、実峰、その徒見方中明、を安曇郡霊松寺に赴かしむ、尋で、良秀もまた同寺に再住す、
427
後小松
応永一一年八月
1404
水内郡霊山寺の水盤、成る、
428
後小松
応永一一年一一月二〇日
1404
幕府の信濃国代官細川慈忠、足利義満の旨をうけ、市河興仙頼房、をして、その所領を安堵せしむ、
429
後小松
応永一一年一二月
1404
是月、是より先、信濃国代官細川慈忠、市河氏貞等を率ヰて、水内郡桐原・若槻・下芋川等に、高梨左馬助等を攻め、また、同郡加佐・蓮並に高井郡東条に戦功を顕す、是月、氏貞、前年来の軍忠を注進して、その証判を請ふ、
430
後小松
応永一一年
1404
天誾、如仲、近江洞寿院に庵居す、尋で、同院をその徒道空真巌、に譲る、
431
後小松
応永一二年一月一七日
1405
幕府的始、村上掃部助等、射手を勤む、
432
後小松
応永一二年二月一五日
1405
僧見方、中明、安曇郡霊松寺住持となる、
433
後小松
応永一二年四月五日
1405
高井郡小菅社観音三十三身の板絵、成る、
436
後小松
応永一二年七月
1405
南禅寺の徒某、柴門新月の図に題詩して、東福寺の徒南渓に贈る、南禅寺の諸僧之に倣ひて題詩す、信濃の僧中孫、抱節、その員に加はる、
440
後小松
応永一二年一一月九日
1405
小笠原長秀、所領を弟政康に譲る、
441
後小松
応永一二年一一月二一日
1405
埴科郡松代町源関神社に社殿、成る、
442
後小松
応永一二年一二月二六日
1405
山科教言、同家領水内郡市村高田等五箇庄の年貢を収納す、
443
後小松
応永一二年一二月
1405
埴科郡松代町明真寺の釈迦如来像、成る、
444
後小松
応永一二年
1405
相国寺鹿苑院塔主明応、空谷、竜福寺の覚心無本、心地房、の頂相に賛す、
444
後小松
応永一三年一月一七日
1406
幕府的始、村上掃部助等、射手を勤む、
445
後小松
応永一三年二月二七日
1406
山科教言、清幸をして、同家領安曇郡住吉庄並に水内郡市村高田等五箇庄のことを奉行せしむ、
446
後小松
応永一三年三月二四日
1406
県召除目、菅原長方、信濃権守に任ぜらる、
447
後小松
応永一三年四月一三日
1406
尼某、伊那郡上横厩の所領を赤須某に売渡す、
448
後小松
応永一三年閏六月二九日
1406
山科家領水内郡市村高田等五箇庄奉行人清幸、同庄年貢請人建徳庵主某をして、同庄の去年未進分の年貢を究済せしむ、
449
後小松
応永一三年一〇月一六日
1406
山科教言、同家領住吉庄並に市村高田等五箇庄のことにつき、同庄奉行人清幸を幕府に遣はす、尋で、再び之を遣はす、
450
後小松
応永一三年一二月二九日
1406
山科家領水内郡市村高田等五箇庄年貢請人建徳庵主某、同庄年貢未済分を皆済す、
450
後小松
応永一四年一月一七日
1407
幕府的始、村上掃部助等、射手を勤む、
452
後小松
応永一四年一月二〇日
1407
是より先、山科家領安曇郡住吉庄並に水内郡市村高田等五庄に関する文書散逸す、是日、大中臣師盛、之を山科教言の許に届く、
453
後小松
応永一四年三月五日
1407
南佐久郡臼田町弥勒寺の花瓶、成る、
453
後小松
応永一四年三月二七日
1407
山科家領水内郡市村高田等五箇庄年貢請人建徳庵主某、信濃棗を山科教言に贈る、
454
後小松
応永一四年三月二九日
1407
県召除目、掃部里久、信濃大目に任ぜらる、
454
後小松
応永一四年三月
1407
島田益直、宣陽門院御領目録を注進す、その中に長講堂領安曇郡住吉庄並に水内郡市村高田庄等の名あり、 後小松上皇、長講堂領信濃住吉庄並に五箇庄を貞成王に安堵せらる、 年次未詳の室町院御領目録中に水内郡小河庄佐久郡伴野庄等の名見ゆ、
454
後小松
応永一四年四月二九日
1407
山科教言、同家領安曇郡住吉庄並に水内郡市村高田等五箇庄のことにつき、書を信濃守護某に送る、
457
後小松
応永一四年六月二三日
1407
幕府料所埴科郡船山郷代官真晃、市河越中守及び倉科帯刀をして、同郷当年分の年貢を請負はしむ、
457
後小松
応永一四年七月二五日
1407
善光寺多宝塔落慶法養あり、
458
後小松
応永一四年八月一五日
1407
善光寺塔供養あり、
459
後小松
応永一四年一〇月六日
1407
前信濃守護小笠原清順長基、卒す、
459
後小松
応永一四年一一月一六日
1407
山科家領水内郡市村高田等五箇庄の年貢、山科教言の許に到る、
467
後小松
応永一五年二月
1408
上高井郡小布施町淨光寺の薬師堂、成る、
467
後小松
応永一五年五月二九日
1408
山科家領安曇郡住吉庄並に水内郡市村高田等五箇庄奉行人清幸、同庄年貢口入人建徳庵主某の横死を、山科教員に報ず、
469
後小松
応永一五年一一月二〇日
1408
山科家領水内郡市村高田等五箇庄の年貢、山科教言の許に到る、尋で、その残分到る、
470
後小松
応永一五年一二月
1408
下伊那郡三穂村立石寺の鰐口、成る、
470
後小松
応永一五年
1408
頼舜、伊那郡文永寺に住す、
471
後小松
応永一六年一月三日
1409
佐久郡安養寺修正看経仏事満散す、
471
後小松
応永一六年七月二日
1409
安保宗繁、信濃守に任ぜらる、
474
後小松
応永一六年七月
1409
僧成園、亡母の三十三年忌に当り、上高井郡小布施町淨光寺に薬師如来像を寄進す、
475
後小松
応永一六年一〇月七日
1409
沙弥道円、筑摩郡熊野社社殿を造立す、
475
後小松
応永一七年一月二八日
1410
県召除目、御笠山高、信濃目に任ぜらる、
476
後小松
応永一七年二月
1410
僧雄誓、佐久郡諏訪社の大般若経を修補す、
476
後小松
応永一七年五月七日
1410
前信濃守護斯波義将、卒す、
481
後小松
応永一七年七月二八日
1410
伊那郡立石寺の鰐口、成る、
483
後小松
応永一八年一月一七日
1411
幕府的始、村上掃部助等、射手を勤む、
484
後小松
応永一八年三月二日
1411
諏訪頼有、諏訪社上社大祝の位に即く、
484
後小松
応永一八年五月一二日
1411
山城石清水八幡宮公文所院尊、同宮及び諸堂の供料所等のことを注す、その中に平等王院領更級郡小谷庄等のことあり、 石清水八幡宮末社記中の小谷庄の年次未詳の記事、
485
後小松
応永一八年七月二八日
1411
幕府、飛騨国司姉小路尹綱を討つ、小笠原持長、甲斐・信濃の兵を率ヰて、幕府の軍に加はる、
487
後小松
応永一八年八月
1411
僧心見、埴科郡坂城町満泉寺の大般若経を書写す、
488
後小松
応永一八年
1411
信濃の人小田切某、越後小川庄細越に移る、高井郡中野如法寺住持源慶、之に随ひ、同地長福寺を再興す、
489
後小松
応永一八年
1411
信濃の僧天誾、如仲、遠江大洞院を開剏す、
489
後小松
応永一九年一月一七日
1412
幕府的始、村上掃部助等、射手を勤む、
491
後小松
応永一九年二月一五日
1412
信濃守護小笠原長秀、出家す、
492
後小松
応永一九年三月一五日
1412
僧昌山・民部伸盛、伊那郡新野村に二善寺を再興す、
493
後小松
応永一九年七月
1412
信濃の僧伊那郡文永寺行得、寂す、
494
称光
応永一九年一〇月二八日
1412
満幸、性関く、伊那郡山室郷天福寺を、谷室山法華堂坊主に預く、
495
称光
応永一九年一〇月
1412
木曽馬篭法明寺の大般若経の修理、成る、
496
称光
応永一九年
1412
信濃の僧性讃、喜山、備中洞松寺を開剏す、
498
称光
応永二〇年一月一七日
1413
幕府的始、屋代新蔵人等、射手を勤む、
499