長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻八 (1頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
称光正長元年三月二一日1428前南弾寺住持霊見性海、三十三年忌、足利義持、明兆吉山、をして、霊見の卵塔を営造し、影像を雕刻して、龕中に安置せしめ、また相国寺鹿苑院塔主周噩厳中、をして陞座説法せしむ、1
称光正長元年1428遠江大洞院住持天誾、如仲、越前竜沢寺住持となる、尋で、天誾、入院す、3
称光正長元年四月八日1428木曽家友、木曽白山社社殿を再興す、4
称光正長元年五月三〇日1428僧頼慶、水内郡戸隠社の大般若経を修補す、 頼慶、戸隠社の大般若経第廿巻・第四十一巻・第九十一巻を修補す、5
後花園正長元年八月二八日1428将軍足利義宣、義教、小笠原正透政康、をして、信濃春近領の下地を安堵せしむ、7
後花園正長元年一〇月一六日1428是より先、関東管領足利持氏、越後守護代長尾邦景等を誘ひ、幕府に叛かんとす、邦景、之を幕府に報ず、是日、幕府、信濃守護小笠原正透政康、をして、信濃に下り、之に備へしむ、8
後花園永享元年正月一四日1429諏訪社上社大祝諏訪頼有、諏訪を去りて甲斐に赴き、尋で、同国に卒す、9
後花園永享元年七月二四日1429是より先、関東管領足利持氏、白河結城氏朝を討つ、幕府、陸奥足利満貞等をして、氏朝に合力せしむ、是日、将軍足利義教、満貞の請により、信濃・越後両国の兵をして氏朝を救援せしめんとして、之を諸将に諮る、9
後花園永享元年八月一八日1429幕府、足利満貞・結城氏朝の請に依り、信濃・越後・駿河三国の軍勢をして、氏朝を援けしめんとす、13
後花園永享元年一一月一五日1429水内郡西巌寺の宝篋印塔、成る、 この年代造立の上水内郡七二会村大安寺・同郡小川村小根山・同郡戸隠村宮沢巌穂氏・飯山市曽根島田清吉氏・北安曇郡広津村牛越氏・下水内郡豊田村神田五六氏・中野市七瀬藤沢仲一郎氏所蔵の宝篋印塔銘14
後花園永享元年1429幕府、祖淳朴庵、朴堂、を佐久郡慈寿寺住持となす、16
後花園永享二年二月二三日1430是より先、小笠原正透、政康、太刀・馬等を将軍足利義教に献ず、是日、義教、その答礼として、太刀・小袖等を贈る、 正透、足利義教に物を献ずるに答ふる二月七日・二月十五日・二月十九日・二月廿三日・三月三日・三月十四日・三月廿日・四月廿二日・六月八日・七月十一日・九月十六日・十一月七日・十一月十三日・十一月十五日・十二月廿七日・三月十四日付の足利義教御内書及び十二月廿六日付の足利義教御内書案19
後花園永享二年三月一日1430諏訪頼満、諏訪社上社大祝の位に即く、27
後花園永享二年八月六日1430幕府、結城氏朝の請に依り、信濃・越後・駿河三国の兵をして、氏朝を下野那須城に援けしむ、27
後花園永享二年八月七日1430本願寺円兼、存如、水内郡長沼浄興寺周観に、執持鈔を授く、 浄興寺所蔵永享二年九月十日付の改邪鈔奥書29
後花園永享二年1430伊那郡定継寺の雲板、成る、29
後花園永享三年一一月二八日1431伊那郡市田安養寺、梵鐘を鋳造し、同寺住持寿苟、その銘文を作る、30
後花園永享三年五月二一日1431山城聖護院、佐久郡大井法華堂宮内律師をして、大井・依田氏一族等の熊野・二所参詣先達職を安堵せしむ、32
後花園永享三年八月二一日1431将軍足利義教、山城東福寺海蔵院をして、同院領水内郡太田庄等を安堵せしむ、33
後花園永享三年一二月二七日1431東福寺の諸僧、豊後万寿寺の僧温崗の請に応じて、古寺春雲図に題詩す、信濃の僧建仁寺禅居庵塔主清禅、伯元、之に与る、33
後花園永享四年四月五日1432南禅寺雲門庵塔主有諸、大有、その祖友梅雪村、の行道記を撰述す、35
後花園永享四年六月五日1432幕府、村山頼清及びその一族被官人の、造豊受大神宮役夫工米を難渋するを停め、頼清をして、之を究済せしむ、36
後花園永享四年六月一三日1432彦洞、明叟、山城建仁寺住持となりて入院す、同寺禅居庵塔主清禅、伯元、その儀式を助く、彦洞法語を述べて之を謝す、37
後花園永享四年九月二九日1432幕府、美濃守護士岐頼益に命じ、妻篭兵庫助をして、七間御厩材木を進ぜしむ、39
後花園永享四年1432中沢右衛門尉、香坂宗たねに、伊那郡中沢郷諸族等の一揆を結びたるを報ず、39
後花園永享五年三月一日1433甲斐守護武田信長、関東管領足利持氏に叛き、鎌倉を逐電す、村上某、信長追討のため甲斐に向ふ、尋で、信長、信濃を経て、京都に逃る、40
後花園永享五年五月一〇日1433西筑摩郡大桑村白山神社の鰐口、成る、41
後花園永享五年閏七月一七日1433信濃守護小笠原正透、政康、上洛の途次、近江草津に馬借土一揆に要撃せられ、森山に退く、41
後花園永享五年1433波多腰清勝、筑摩郡鉢伏権現に妙法華経一部を納む、42
後花園永享五年一一月二七日1433是より先、延暦寺衆徒等、蜂起す、是日、幕府、信濃守護小笠原正透政康、・山名持豊等をして、之を攻めしむ、43
後花園永享六年二月二三日1434水内郡長沼浄興寺周観、上洛して、愚禿鈔を書写す、 本願寺円兼、周観の上洛を促す、45
後花園永享六年八月二二日1434水内郡長沼浄興寺六世芸範並に同七世性順、寂す、48
後花園永享七年正月二六日1435将軍足利義教、信濃守護小笠原正透政康、を召し、関東管領足利持氏の野心につき子細を含めしむ、49
後花園永享七年正月二九日1435幕府、信濃守護小笠原正透政康、を帰国せしめ、越後守護代長尾邦景と共に、大井持光を援けて、芦田下野守を討たしむ、50
後花園永享七年二月一七日1435将軍足利義教、信濃守護小笠原正透政康、をして、大井持光・芦田下野守を和睦せしむべきことを命ず、51
後花園永享七年二月二一日1435幕府、斯波義郷に替地を充行ふにより、美濃中河御厨地頭職を小笠原正透政康、に還附す、52
後花園永享七年1435聖護院、佐久郡大井法華堂宮内律師をして、大井・依田一族等の熊野・二所参詣先達職を安堵せしむ、53
後花園永享七年七月一六日1435幕府、建仁寺禅居庵塔主清禅伯元、を差定して、山名持煕の四七日忌拈香仏事を勤仕せしめんとす、53
後花園永享七年七月二三日1435玉珠丸、筑摩郡光輪寺の大般若経を書写す、54
後花園永享七年七月二五日1435幕府、秀明を伊那郡建福寺住持となす、 徳固石心、・華蔵・仁叟、建福寺住持となす、55
後花園永享七年九月二二日1435陸奥足利満貞及び佐竹義憲等、足利持氏の、義憲等を討たんとするを幕府に告ぐ、是日、将軍足利義教、信濃守護小笠原正透政康、をして、芦田下野守を討つを停め、義憲等を援けしむ、58
後花園永享七年一〇月七日1435将軍足利義教、村山頼清をして、その被官人との闘諍を停め、足利持氏の謀叛に備へしむ、59
後花園永享八年三月六日1436是より先、信濃守護小笠原正透、政康、芦田下野守を討たんがため、小県郡祢津に攻寄せ、同郡芝生田・別府両城を陥る、是日、将軍足利義教、その功を賞し、太刀を与ふ、60
後花園永享八年三月一五日1436木曽長福寺開山前建長寺住持自厳、竹隠、寂す、61
後花園永享八年五月一八日1436信濃守護小笠原正透、政康、小県郡祢津・海野の戦功を幕府に報ず、是日、将軍足利義教、正透の功を賞し、之に太刀を与ふ、72
後花園永享八年六月一四日1436仁科持盛、安曇郡仁科神明の式年造営を行ひ、是日、遷宮を行ふ、73
後花園永享八年八月三日1436是より先、芦田下野守、信濃守護小笠原正透政康、に降る、是日、将軍足利義教、正透の戦功を賞し、太刀を与ふ、75
後花園永享八年九月二八日1436相国寺鹿苑院陰涼軒主真蕊、季瓊、志見を諏訪郡慈雲寺住持となさんことを、足利義教に披露す、76
後花園永享八年一〇月一五日1436幕府、斯波義郷の尽七忌拈香仏事勤仕を有諸大有、に差定す、77
後花園永享八年一二月二〇日1436是より先、村上頼清、信濃守護小笠原正透政康、と戦ひ、援を関東管領足利持氏に請ふ、持氏、領清を援けんとす、執事上杉憲実、諌めて之を停む、是日、将軍足利義教、正透の軍功を賞し、太刀等を与ふ、77
後花園永享九年正月二日1437信濃の僧遠江大洞院開山天誾、如仲、寂す、83
後花園永享九年三月一八日1437伊那郡野池社の鰐口、成る、90
後花園永享九年四月二七日1437信濃の人井上某、銭並に太刀を幕府に献ず、90
後花園永享九年六月七日1437是より先、関東管領足利持氏、上杉憲直をして、信濃村上頼清に合力すと称して、兵を聚め執事上杉憲実を討たしめんとすの風聞あり、是日、持氏、憲実を訪ひて、その訛伝なることを弁疏す、91
後花園永享九年七月一八日1437小県郡浅井寺の鰐口、成る、95
後花園永享九年八月一八日1437村上頼清、幕府に降り、是日、上洛して将軍足利義教に謁す、95
後花園永享九年一一月八日1437是より先、小県郡祢津善福寺大覚坊、上野下屋淡路と二所参詣先達職を争論す、是日、下屋伊勢、争論落居まで、同職得分を預かる、97
後花園永享九年一二月二七日1437幕府、聖幢を小県郡安楽寺住持となす、98
後花園永享一〇年1438木曽定勝寺住持正心、同寺領並にその常什物の校割を注す、99