長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻八 (100頁~)
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後花園
永享一〇年三月八日
1438
相国寺鹿苑院陰涼軒主真蕊、季瓊、一色義春の義母の百箇日忌に、建仁寺禅居庵塔主清禅伯元、をして拈香仏事を勤仕せしめんことを幕府に推挙す、
103
後花園
永享一〇年三月二二日
1438
幕府、真倪大元、を佐久郡慈寿寺住持となす、
104
後花園
永享一〇年八月一七日
1438
幕府、信濃守護小笠原正透政康、をして、甲斐守護武田信重の甲斐入部を援けしむ、
104
後花園
永享一〇年八月二三日
1438
中納言飛鳥井雅世、新続古今和歌集四季部を後花園天皇に奏覧す、その中に信濃の和歌見ゆ
105
後花園
永享一〇年八月二九日
1438
是より先、関東管領足利持氏、将軍足利義教に叛す、是日、義教、重ねて、信濃守護小笠原正透政康、に命じて、関東に進発し、持氏を討たしむ、
107
後花園
永享一〇年
1438
小県郡四阿山白山権現の懸仏、成る、
110
後花園
永享一〇年九月六日
1438
信濃守護小笠原正透、政康、関東管領足利持氏追討のため関東へ進発す、尋で、幕府、正透をして、信濃国人の未だ参陣せざるものに催促を加へしむ、
111
後花園
永享一〇年九月一〇日
1438
信濃守護小笠原正透政康、等、関東管領足利持氏の軍と相模箱根山に戦ひ、敗退す、
112
後花園
永享一〇年一〇月一日
1438
将軍足利義教、信濃守護小笠原正透政康、をして、戦勝つと雖も命を待たずして帰国することなからしむ、
114
後花園
永享一〇年一二月二三日
1438
将軍足利義教、信濃守護小笠原正透政康、の忠節を褒す、
115
後花園
永享一〇年一二月二六日
1438
幕府、信濃の僧清在竜田、を、伊那郡開善寺住持となす、
116
後花園
永享一〇年
1438
信濃の僧前建仁寺住持清禅、伯元、寂す、
118
後花園
永享一一年閏正月二四日
1439
将軍足利義教、信濃守護小笠原正透政康、をして、足利満貞・武田信重等と共に、関東管領足利持氏誅伐に備へしむ、
124
後花園
永享一一年二月一〇日
1439
信濃守護小笠原正透、政康、上杉憲実等と共に、関東管領足利持氏を鎌倉永安寺に攻め、之を自刃せしむ、
125
後花園
永享一一年二月一五日
1439
幕府、足利義詮年忌に、南禅寺雲門庵塔主有諸大有、をして、拈香仏事を勤仕せしめんことを定む、
127
後花園
永享一一年三月二九日
1439
波多信盛、筑摩郡若沢寺に梵鐘を寄進す、
127
後花園
永享一一年
1439
木曽殿村白山社の鰐口、成る、
128
後花園
永享一一年四月二七日
1439
相国寺鹿苑院陰涼軒主真蕊、季瓊、梵育を信濃西光寺の住持となさんことを、足利義教に披露す、
129
後花園
永享一一年五月一〇日
1439
本願寺兼寿、蓮如、念仏往生要義抄を書写し、水内郡勝善寺了慶に授く、
129
後花園
永享一一年六月五日
1439
幕府、日野業子年忌に、南禅寺雲門庵塔主有諸大有、をして、拈香仏事を勤仕せしめんことを定む、
130
後花園
永享一一年六月二〇日
1439
将軍足利義教、小笠原正透政康、に、美濃中河御厨地頭職を還附す、
130
後花園
永享一一年九月一五日
1439
幕府、宗幢を諏訪郡慈雲寺住持となす、
131
後花園
永享一一年一〇月二五日
1439
伊那郡坂部八王子社の鰐口、成る、
132
後花園
永享一二年三月一六日
1440
幕府、相国寺勝定院に於ける足利義持十三回忌法要に、南禅寺雲門庵塔主有諸大有、をして、拈香仏事を勤仕せしめんことを定む、
132
後花園
永享一二年四月一九日
1440
是より先、結城氏朝、足利持氏の遺子春王丸・安王丸をその城に迎へ、幕府に叛す、同永寿王丸、また信濃大井持光の許より同城に投ず、幕府、関東管領執事上杉清方等をして、之を討たしむ、是日、清方、信濃等諸国の兵を率ヰて鎌倉を発す、
133
後花園
永享一二年七月二九日
1440
関東管領執事上杉清方、諸軍をして、結城城を攻めしむ、信濃守護小笠原正透、政康、陣中奉行を命ぜられ、その手兵の陣番を定む、
137
後花園
永享一二年八月九日
1440
大井持光、結城氏朝に応ぜんがため、兵を起して、唯氷峠に陣を進む、上杉憲実、弟重方をして、上野国分に、之を禦がしむ、
144
後花園
永享一二年九月一〇日
1440
幕府、南禅寺雲門庵塔主有諸大有、を相国寺大智院に於ける足利義教逆修勤行衆の一員に差定して、仏事を勤仕せしむ、
145
後花園
永享一二年一一月一二日
1440
小県郡四阿山白山権現の懸仏、成る、
146
後花園
永享一二年一一月一五日
1440
是より先、関東管領執事上杉清方、結城城攻撃のことを諸将に諮る、小笠原正透、政康、等、意見を具申す、是日、仙波常陸介、之を幕府に報ず、
146
後花園
永享一二年一二月一日
1440
上杉長棟、憲実、安保宗繁の信濃勢出帳に就きて報知せしを謝す、
150
後花園
永享一二年一二月二一日
1440
幕府、全雍を伊那郡西岸寺住持となす、
151
後花園
永享一二年
1440
南佐久郡田口青沼村の石幢、成る、
151
後花園
嘉吉元年五月二六日
1441
是より先、信濃守護小笠原正透政康、等、結城城を陥れ、足利持氏の遺子春王丸・安王丸を擒る、是日、将軍足利義教、正透等の戦功を賞す、 宝徳元年九月九日、永寿王丸、将軍足利義政に許され、関東管領に補せられ、鎌倉に入る、
152
後花園
嘉吉元年六月二六日
1441
是より先、将軍足利義教、赤松満祐に殺害せらる、是日、管領細川持之、之を小笠原正透政康、等諸将に報じ、併せて、結城氏朝の党佐竹義憲討伐のことを命ず、
165
後花園
嘉吉二年六月一一日
1442
中原康富、諏訪忠政持参の諏訪大明神縁起絵巻を伊勢貞親邸に覧る、
167
後花園
嘉吉二年七月四日
1442
信濃の僧備中洞松寺住持性讃、喜山、寂す、
167
後花園
嘉吉二年八月九日
1442
信濃守護小笠原正透、政康、卒す、 一純、雪叟、筑摩郡広沢寺に入院す、
170
後花園
嘉吉二年一二月一日
1442
是より先、伏見宮貞成親王、諏訪大明神縁起絵巻閲覧の意あり、是日、諏訪忠政、之を進覧す、尋で、後花園天皇に上覧す、
194
後花園
嘉吉三年
1443
源大夫、更級郡八幡宮に灯篭を寄進す、
197
後花園
嘉吉三年一二月一〇日
1443
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
197
後花園
文安元年三月三日
1444
伊那郡福徳寺薬師如来像の彩色、成る、
199