長野県立歴史館 信濃史料

「信濃史料」 巻八 (200頁~)


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天皇 年月日 西暦 記事
後花園文安元年五月九日1444佐久郡安養寺の徒有通、同寺年中諷経回向書に識語を加ふ、200
後花園文安元年一一月八日1444諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、200
後花園文安二年三月五日1445佐久郡熊野社社殿、成る、201
後花園文安二年八月二九日1445幸覚、法華経を書写す、202
後花園文安二年一〇月一四日1445常安、守矢満実をして、諏訪社上社神長祝職を安堵せしむ、203
後花園文安二年1445建仁寺大統院嘉隠軒の徒周孫、龍渓、信濃に赴かんとし、同寺栖芳院塔主周曮東沼、等詩を賦して、之に餞す、204
後花園文安二年一一月二四日1445是より先、小笠原宗康、従兄同持長と亡父正透康政、の遺領を争ふ、是日、幕府奉行人等、宗康をして、之を安堵せしむべきの意見を幕府に答申す、204
後花園文安二年一一月二七日1445諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、206
後花園文安三年二月二一日1446竜惺、瑞巌、建仁寺住持となり、是日、入院す、同寺禅居庵塔主清啓、天与、山門疏を作りて、招請の意を表す、207
後花園文安三年三月一一日1446小笠原宗康、従兄同持長と隙あり、是日、宗康、萬一を虜り、書を弟光康に遣り、惣領職・所領等を譲る、尋で、水内郡漆田原に持長の軍と戦ひ、敗死す、 宗康の伝記209
後花園文安三年五月四日1446是より先、甲斐守護武田信重、小笠原宗康の戦死を幕府に報ず、是日、細川持賢、書を信重に遣り、小笠原光康をして、信濃守護職并に所領を安堵せしめし由を報ず、219
後花園文安三年六月二七日1446武蔵入西郡の人若林情金、小県郡白山権現に鰐口を寄進す、220
後花園文安三年七月二七日1446諏訪社上社御射山祭、高井郡井上庄等、その頭役を勤む、 諏訪社上社閏月の年の祭礼神事の次第220
後花園文安三年1446弁永、水内郡戸隠社に般若心経版木を施入す、 戸隠山物忌令223
後花園文安三年1446方林、雪岡、東福寺住持となり、入院す、祖黙、存耕、道旧疏を作りて、之を賀す、南禅寺雲門庵塔主有諸、大有、その疏に簽押す、225
後花園文安三年一二月九日1446諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、227
後花園文安三年一二月一八日1446是より先、建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、東福寺栗棘庵の徒慧照雪窓、の雪の偈に和韻す、是日、清啓、相国寺鹿苑院に詣り、その和偈を同院塔主周鳳瑞渓、に呈す、228
後花園文安三年1446佐久郡平賀に乱あり、229
後花園文安三年1446信濃国大飢饉あり、229
後花園文安四年1447諏訪社上社御室焼く、230
後花園文安四年三月二四日1447大町市盛蓮寺の薬師如来像、成る、230
後花園文安四年1447幕府、南禅寺雲門庵塔主有諸大有、を同寺住持となす、尋で、有諸、入院す、231
後花園文安四年五月六日1447相国寺、故足利義満の年忌仏事を行ひ、南禅寺住持有諸大有、をして、拈香仏事を勤修せしむ、233
後花園文安四年七月二九日1447諏訪社上社御射山祭、佐久郡岩村田郷等、その頭役を勤む、234
後花園文安四年一一月九日1447足利義成、義政、弓始、小笠原持長、その師範を勤む、234
後花園文安四年一一月一七日1447諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、235
後花園文安五年三月一三日1448諏訪頼長、諏訪社上社大祝の位に卽く、236
後花園文安五年四月七日1448諏訪社上社花会、水内郡高田郷等、その頭役を勤む、241
後花園文安五年1448山城南禅寺、木曽山等より出す同寺仏殿修造材木の刻印を注す、242
後花園文安五年五月五日1448諏訪社上社五月会、埴科郡坂木郷等、その頭役を勤む、243
後花園文安五年七月二七日1448諏訪社上社御射山祭、小県郡塩田郷等、その頭役を勤む、243
後花園文安五年一一月二日1448豊受大神宮神主度会文里、信濃国赤沢氏一族等の檀那文書の紛失を大神宮政所に上申し、その証判を請ふ、尋で、政所、之に証判を加ふ、244
後花園文安五年一二月七日1448諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、246
後花園文安五年1448信濃飢饉并に、長雨あり、247
後花園宝徳元年四月七日1449諏訪社上社花会、高井郡中村郷等、その頭役を勤む、248
後花園宝徳元年五月五日1449諏訪社上社五月会、高井郡大岩郷等、その頭役を勤む、248
後花園宝徳元年六月一〇日1449是より先、諏訪上下社神人等、互に争ふ、是日、下社焼く、249
後花園宝徳元年六月一一日1449足利持氏の遺子永寿王、成氏、千野加賀守の忠節を褒す、249
後花園宝徳元年1449性金、小県郡白山権現に鰐口を寄進す、250
後花園宝徳元年七月二七日1449諏訪社上社御射山祭、佐久郡伴野郷等、その頭役を勤む、250
後花園宝徳元年八月一〇日1449建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、相国寺寿徳庵塔主周鳳瑞渓、を訪ふ、251
後花園宝徳元年八月一五日1449高梨道高等、一族の規式を定む、252
後花園宝徳元年八月二四日1449諏訪社上社神人等、筑摩郡塩尻に、同社下社神人と戦ひて、之を破る、255
後花園宝徳元年九月一四日1449木曽岩殿山、造豊受大神宮御杣に定めらる、255
後花園宝徳元年一一月二四日1449諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、256
後花園宝徳元年一一月二九日1449後花園天皇、南禅寺住持一慶雲章、の請に応じて、同寺寺方丈常住のために新図せる普門無関、の頂相に、東福寺竜吟庵所伝の古図所見の亀山法皇御製の旧賛詞を題す、258
後花園宝徳元年1449祢津信貞、小県郡祢津に定津院を開剏し、甲斐東林院住持宗英拈笑、を請じて開山となす、260
後花園宝徳二年三月二二日1450建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、同門霊謙享伯、のために、その道号の二大字を書き、その頌をつくる、263
後花園宝徳二年四月二九日1450鎌倉円覚寺黄梅院に疎石夢窓、の百年忌を行ふ、信濃在住の夢窓門徒、之に参ず、264
後花園宝徳二年五月五日1450諏訪社上社五月会、高井郡須田郷等、その頭役を勤む、264
後花園宝徳二年六月一日1450筑摩郡若沢寺の鰐口、成る、265
後花園宝徳二年六月一九日1450小笠原光康、遠江守に任ぜらる、266
後花園宝徳二年七月二七日1450諏訪社上社御射山祭、高井郡井上郷等、その頭役を勤む、266
後花園宝徳二年八月二三日1450幕府犬追物、小笠原光康等、射手を勤む、 永享以来御番帳及び文安年中御番帳267
後花園宝徳二年一一月二九日1450諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、是日、諏訪社上社、之を幕府に注進す、273
後花園宝徳二年1450建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、信濃に帰省せんとす、相国寺寿徳庵塔主周鳳、瑞渓、餞詩を賦して之に贈る、 信濃の僧叔元、帰郷す、 某人信濃に赴く、274
後花園宝徳二年1450浅間山、噴火す、276
後花園宝徳三年五月四日1451是より先、越後守護上杉房定、守護代長尾邦景を殺す、仍りて、邦景の子実景、信濃に奔る、是日、将軍足利義政、某をして、房定に合力し、実景を討たしむ、277
後花園宝徳三年1451南禅寺禅栖院の徒霊朔、雪岫、紀伊興国寺に赴きて、同寺住持殊楞伯厳、に随侍せんとく、南禅寺の諸老、送行の頌を作つて之に餞す、信濃の僧同寺慈氏院塔主中孫、 抱節、之に与す、278
後花園宝徳三年八月一三日1451建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、相国寺寿徳庵塔主周鳳瑞渓、を訪ふ、282
後花園宝徳三年一〇月五日1451小笠原宗持長、諏訪社下社大祝をして、同社領伊那郡弖良郷等を安堵せしむ、282
後花園宝徳三年一〇月一六日1451小笠原持長、諏訪社下社大祝をして、同社領筑摩郡春近領塩尻東西等の地を安堵せしむ、283
後花園宝徳三年一〇月二六日1451是より先、幕府、前天竜寺住持允澎東洋、を遺明正使に任ず、是日、允澎等、京都を出発して入明の途に就く、建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、之に随伴す、284
後花園宝徳三年一二月二五日1451諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、290
後花園宝徳三年一二月二八日1451信濃の僧建仁寺の徒成甫、相国寺寿徳庵に同庵塔主周鳳瑞渓、を訪ひ、遺明使随員建仁寺禅居庵塔主清啓天与、の途中摂津兵庫に於て賦する詩を呈示す、292
後花園宝徳三年1451梵清、天宙、筑摩郡広沢寺住持となる、293
後花園享徳元年四月七日1452諏訪社上社花会、高井郡志久見郷等、その頭役を勤む、294
後花園享徳元年五月五日1452諏訪社上社五月会、筑摩郡捧庄等、その頭役を勤む、295
後花園享徳元年七月二七日1452諏訪社上社御射山祭、伊那郡飯田郷等、その頭役を勤む、296
後花園享徳元年八月七日1452長野市大門町出土の五輪塔、成る、296
後花園享徳元年八月一八日1452允澎、東洋、筑前博多を出帆す、建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、之に随伴す、297
後花園享徳元年九月二一日1452藤原宣光、筑摩郡神明社社殿を造立し、是日、上棟す、298