長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻八 (300頁~)
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後花園
享徳元年一一月一二日
1452
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
300
後花園
享徳元年一一月一三日
1452
元方、天佑、法華経を書写し、之を小県郡常楽寺に埋納す、
301
後花園
享徳元年
1452
上田市上塩尻出土の板碑、成る、
303
後花園
享徳二年三月一九日
1553
清啓天与、等、遺明使の一行、五島に著岸す、
303
後花園
享徳二年四月六日
1553
清啓天与、等、遺明使の一行、普陀落山に著岸す、
303
後花園
享徳二年四月一七日
1553
清啓天与、等、遺明使の一行、定海県に著岸す、
305
後花園
享徳二年四月二〇日
1553
清啓天与、等、遺明正使の一行、杭州寧波府に著岸す、
306
後花園
享徳二年七月二七日
1553
諏訪社上社御射山祭、高井郡犬飼郷等、その頭役を勤む、
306
後花園
享徳二年九月二日
1553
慶導等、小県郡善福寺の大般若経を書写す、
307
後花園
享徳二年一〇月二日
1553
遺明使従僧清啓天与、等、貢馬を運送して明国首都北京に到著す、尋で、清啓等、代宗皇帝に謁見す、
308
後花園
享徳二年一一月三日
1553
小県郡中禅寺の鰐口、成る、
311
後花園
享徳二年一一月二六日
1553
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
312
後花園
享徳二年一二月三〇日
1553
是より先、幕府、南禅寺冬至秉払・小参・上堂の問禅の差定に関する同寺内の無準・松源両脈の紛争を裁許す、是日、同寺住持及び前住、その旨を同寺一衆に触る、同寺雲門庵塔主有諸大有、之に与る、
313
後花園
享徳三年三月二六日
1454
諏訪信満、小井弖上総をして、諏訪郡栗林南方の地を安堵せしむ、
314
後花園
享徳三年四月七日
1454
諏訪社上社花会、水内郡市村郷等、その頭役を勤む、
315
後花園
享徳三年五月五日
1454
諏訪社上社五月会、埴科郡坂木郷等、その頭役を勤む、
316
後花園
享徳三年五月二九日
1454
清啓天与、等、遺明使の一行、北京への朝覲を終へて、再び杭州寧波府に帰著し、安遠駅店に止宿す、 慧鳳、翰之、清啓に詩を寄す、
317
後花園
享徳三年六月一七日
1454
是より先、清啓天与、等、遺明使の一行、杭州寧波府案遠駅を出発して、帰国の途に就く、是日、定海県に著岸す、
319
後花園
享徳三年六月二二日
1454
清啓天与、等、遺明使の一行、補陀落山に著岸す、
320
後花園
享徳三年六月二七日
1454
清啓天与、等、遺明使一行、補陀落山を発して、五嶋に向ひ、途中漂白して、朝鮮の耽没羅に寄航す、
321
後花園
享徳三年七月八日
1454
清啓天与、等、遺明使の一行、雄山に著岸す、
323
後花園
享徳三年七月一〇日
1454
清啓天与、等、遺明使一行、筑前志賀嶋に著岸す、
324
後花園
享徳三年七月一三日
1454
清啓天与、等、遺明使の一行、長門赤間関に帰著す、 建仁寺大昌院塔主竜沢、天隠、清啓を追憶して詩を作る、 清啓の俗姪建仁寺禅居庵の徒智云古雲、の試筆の詩を韻す、
324
後花園
享徳三年七月二七日
1454
諏訪社上社御射山祭、水内郡南高田郷等、その頭役を勤む、
326
後花園
享徳三年七月二九日
1454
諏訪社上社、同社明年御射山祭の頭役を、小県郡塩田郷等に充つ、
326
後花園
享徳三年一二月一〇日
1454
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
327
後花園
享徳三年一二月二六日
1454
建仁寺禅居庵塔主前能登安国寺住持清啓、天与、相国寺寿徳庵塔主周鳳瑞渓、を訪ふ、幕府、清啓を能登安国寺住持となす、 幕府、清啓を能登安国寺住持となす、
329
後花園
享徳三年一二月二七日
1454
関東管領足利成氏、兵を遣はして、執事上杉憲忠を鎌倉に殺す、尋で、信濃・越後等の兵、上杉氏に与し成氏を討たんとす、
330
後花園
康正元年正月一六日
1455
関東管領足利持氏、故上杉憲実の子房憲の武蔵に攻めんとす、是日、将軍足利義政、小笠原光康をして、房憲を援けて成氏を撃たしむ、尋で、また、之を命ず、
332
後花園
康正元年三月三日
1455
木曽家賢、慧厳香林、を木曽定勝寺の住持となす、
333
後花園
康正元年三月一一日
1455
建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、山城鹿苑寺に同寺住持澄听東岳、を訪ふ、
335
後花園
康正元年四月五日
1455
原氏長、木曽定勝寺垣内田を同寺に寄進す、
335
後花園
康正元年四月一五日
1455
筑摩郡広沢寺開山、近江新豊寺住持一純雪叟、寂す、
336
後花園
康正元年四月二五日
1455
相国寺寿徳庵塔主周鳳、瑞渓、南禅寺雲門庵に同庵塔主有諸大有、を訪ふ、 有諸の事蹟
339
後花園
康正元年五月五日
1455
諏訪社上社、明年五月会頭役を、伊那郡名子郷等に充つ、
342
後花園
康正元年五月六日
1455
関東管領足利成氏、上杉房顕の党信濃・甲斐等の軍勢を討たんがため、岩松持国の進発を促す、尋で、信濃等の軍勢、下野只木野等に篭り、成氏の軍と戦ふ、
343
後花園
康正元年六月一六日
1455
知久頼矯の子宮寿丸、宗詢、後花園天皇の当座和歌御会に召されて和歌を詠ず、
345
後花園
康正元年七月三〇日
1455
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、筑摩郡会田郷に充つ、
348
後花園
康正元年一〇月二九日
1455
宮寿丸、宗詢、後花園天皇の召により参内す、 宮寿丸、青蓮院御筆手本を賜はる、
349
後花園
康正元年
1455
伊那郡無量寺阿祢陀如来像の修理、成る、
351
後花園
康正元年一一月一七日
1455
諏訪湖上に、諏訪大明神渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
351
後花園
康正元年一一月二一日
1455
宮寿丸、宗詢、山城後醍醐寺理知院に入院せんとして、暇乞のため参内す、後花園天皇・伏見宮貞常親王、宮寿丸等と和歌を贈答す、
353
後花園
康正元年一一月二七日
1455
将軍足利義政、小笠原光康に、関東管領足利成氏討伐の為め、関東出陣を促す、
355
後花園
康正元年
1455
幕府、前能登安国寺住持建仁寺禅居庵塔主清啓天与、を、伊那郡開善寺住持となす、
356
後花園
康正二年正月一八日
1456
将軍足利義政、小笠原国松政秀、をして、所領を安堵せしむ、
360
後花園
康正二年三月三〇日
1456
木曽家定、木曽谷の諸関をして、木曽定勝寺同宿・下部の荷物を勘過せしむ、
360
後花園
康正二年四月八日
1456
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、高井郡河田郷等に充つ、
361
後花園
康正二年五月五日
1456
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、更級郡桑原郷等に充つ、
362
後花園
康正二年五月一〇日
1456
細川道賢、持賢、小笠原光康に関東出陣を促す、
362
後花園
康正二年六月一四日
1456
仁科持盛、安曇郡仁科神明の式年造営を行ひ、是日、遷宮を行ふ、
363
後花園
康正二年七月二九日
1456
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、伊那郡宮田郷等に充つ、
365
後花園
康正二年九月一一日
1456
将軍足利義政,小笠原光康の足利成氏征伐の功を褒し、併せて光康をして、同清宗を討たしむ、是日、管領細川勝元・同道賢、持賢、その旨を光康に報ず、
365
後花園
康正二年一二月三日
1456
諏訪湖上に、諏訪大明御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
367
後花園
康正二年
1456
後花園天皇、伊那郡文永寺をして、太元堂を建立せしむ、
368
後花園
長禄元年四月八日
1457
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、筑摩郡桐原郷等に充つ、
369
後花園
長禄元年五月五日
1457
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、佐久郡内山郷等に充つ、
370
後花園
長禄元年七月二九日
1457
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、佐久郡鷹野郷等に充つ、
370
後花園
長禄二年正月二〇日
1458
信濃の僧、備中法泉寺住持仁泉、古澗、同寺の規式を定め、同寺高岳庵を梵機関叟、に譲与す、
371
後花園
長禄二年二月二九日
1458
幕府、宗閭を諏訪郡慈雲寺首座となす、
373
後花園
長禄二年
1458
信濃の僧、備中法泉寺住持仁泉、古澗、寂す、
373
後花園
長禄二年三月一五日
1458
幕府、周桃を、諏訪郡安国寺住持となす、
374
後花園
長禄二年三月二二日
1458
信濃の僧、遠江海蔵寺住持性応、物外、寂す、
375
後花園
長禄二年四月八日
1458
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、水内郡窪寺郷等に充つ、
376
後花園
長禄二年五月五日
1458
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、伊那郡大草郷等に充つ、
377
後花園
長禄二年五月二八日
1458
筑摩郡薄宮の狛犬像、成る、
378
後花園
長禄二年七月一五日
1458
僧有通、戸隠山顕光寺流記を編述す、
378
後花園
長禄二年七月二九日
1458
将軍足利義政、小笠原光康をして、上野岩松尚純を援けて、関東管領足利成氏を討たしむ、
397
後花園
長禄二年七月三〇日
1458
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、高井郡小嶋郷等に充つ、
398
後花園
長禄二年八月二七日
1458
将軍足利義政、小笠原光康被官並に赤沢一族等に、足利成氏討伐のため、関東に発向すべきを命ず、
399