長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻八 (500頁~)
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後花園
寛正五年六月一四日
1464
諏訪社上社遷宮、並に御宝殿立始、
504
後花園
寛正五年六月二五日
1464
幕府、遣明正使清啓天与、等京都発軫の日を定む、
504
後花園
寛正五年七月六日
1464
遣明正使建仁寺禅居庵塔主清啓天与、等、足利義政に渡海出発の礼を致す、
505
後花園
寛正五年七月一五日
1464
山城万寿寺住持梵嘏天佑、同寺の寺記を撰す、 その中に同寺領不知行の地として、安曇郡仁科庄を挙ぐ、
506
後花園
寛正五年七月一八日
1464
将軍足利義政、遣明正使清啓天与、に明国に求むべき書籍目録を付す、
508
後土御門
寛正五年七月二九日
1464
幕府、元派を伊那郡開善寺住持となす、
510
後土御門
寛正五年七月三〇日
1464
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、水内郡赤沼郷等に充つ、
510
後土御門
寛正五年八月四日
1464
幕府、建昭を諏訪郡慈雲寺住持となす、
511
後土御門
寛正五年
1464
皇大神宮祢宜荒木田永量、所領筑摩郡会田・麻績両御厨等を、権祢宜同永尚並に同永家に譲る、
511
後土御門
寛正五年一二月五日
1464
諏訪社上社、社殿を造営し、是日、上棟式を行ふ、
513
後土御門
寛正五年一二月七日
1464
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
514
後土御門
寛正五年一二月一五日
1464
佐久郡桑山左衛門三郎大夫、二所参詣先達職を加賀房に譲る、
515
後土御門
寛正五年一二月一九日
1464
幕府、芳泉を諏訪郡慈雲寺住持、梵通を同郡安国寺住持となす、
515
後土御門
寛正六年二月九日
1465
幕府奉人伊勢貞親、高梨政高の馬を贈るを謝し、併せて訴訟のことにつき、前管領細川勝元になほ申入るべきを勧む、
516
後土御門
寛正六年三月一五日
1465
諏訪社上社に神異あり、
518
後土御門
寛正六年四月三日
1465
幕府、等益を伊那郡開善寺住持となす、
518
後土御門
寛正六年四月八日
1465
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、伊那郡松岡郷等に充つ、
518
後土御門
寛正六年四月一四日
1465
幕府、佐久郡伴野貞棟の請に依り、貞棟を上総介に推挙す、
519
後土御門
寛正六年五月五日
1465
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、小県郡青木郷等に充つ、
521
後土御門
寛正六年五月一五日
1465
伊勢貞親、大井刑部少輔の馬を贈るを謝し、併せて、刑部少輔の埴科郡船山郷入部を認む、尋で、また、刑部少輔、同郷のことにつき貞親に申入る、
522
後土御門
寛正六年五月一八日
1465
幕府、仁科持盛をして、若狭入道の、その姪堀内七郎知行分安曇郡矢原庄内池田郷の地を押領するを停め、七郎をして、之を安堵せしむ、
524
後土御門
寛正六年六月二日
1465
小笠原持清、闕所地拝領に就きて、礼物を幕府に贈る、
525
後土御門
寛正六年六月九日
1465
幕府、小笠原光康をして、上杉房定と共に、村上兵部少輔・高梨政高等を撃たしむ、
525
後土御門
寛正六年六月一五日
1465
佐久郡法華堂源宗等、二所・熊野参詣先達職を出羽公秀光に譲る、
526
後土御門
寛正六年七月二日
1465
諏訪信満、甲斐に戦ふ、尋で、帰国す、
527
後土御門
寛正六年七月九日
1465
僧尭恵、越後より信濃に入る、尋で、善光寺・戸隠山奥院等に詣づ、
527
後土御門
寛正六年七月二二日
1465
水内郡長沼争興寺周観、寂す、
528
後土御門
寛正六年七月二七日
1465
諏訪社上社大祝諏訪信満、神長満実と隙あるに依りてその出仕を停む、尋で、和す、
529
後土御門
寛正六年七月三〇日
1465
諏訪社上社、同社明年御射山頭役を、埴科郡船山郷等に充つ、
530
後土御門
寛正六年
1465
長野市葛山落合神社社殿、成る、
531
後土御門
寛正六年八月一五日
1465
善光寺堂供養あり、
531
後土御門
寛正六年八月一五日
1465
大風あり、諏訪社上社の社木、多く損ず、
532
後土御門
寛正六年八月二四日
1465
小県郡祢津定津院僧某、諏訪安国寺住持となり、是日、入院す、
532
後土御門
寛正六年八月二七日
1465
諏訪信満、病む、
532
後土御門
寛正六年
1465
諏訪社上社、桂立、北角の柱立たず、
532
後土御門
寛正六年一〇月二〇日
1465
是より先、遣明正使建仁寺禅居庵塔主清啓、天与、発軫遅滞について、之を幕府に督促す、是日、幕府、奉行人伊勢貞親の執事蜷川親元をして、遅延の事由を清啓に告知せしむ、
533
後土御門
寛正六年一一月一七日
1465
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
534
後土御門
寛正六年一一月二〇日
1465
諏訪社上社大祝諏訪頼長、同社大宮上坊に卒す、
535
後土御門
寛正六年一一月二二日
1465
諏訪社上社神使御頭、精進始、
536
後土御門
寛正六年一二月一五日
1465
小笠原政貞、足利義政に謝礼を言上す、
536
後土御門
寛正六年一二月一八日
1465
幕府、宗隆を佐久郡慈寿寺住持となす、
536
後土御門
寛正六年一二月三〇日
1465
諏訪の兵、甲斐の兵と同国御行原に戦ひ、之を破る、
537
後土御門
文正元年正月一日
1466
諏訪社上社、同社の神使御頭を定む、
537
後土御門
文正元年正月八日
1466
山城醐醍寺理性院に太元修法あり、伊那郡文永寺住持宗詢、伴僧に列す、
538
後土御門
文正元年正月一二日
1466
諏訪信満の兵、甲斐の兵と同国六河に戦ひ、敗る、尋で、信満、兵を引く、
538
後土御門
文正元年閏二月一日
1466
遣明正使清啓、天与、筑前聖福寺にありて、同寺の徒自南の請に応じて、その所居酔雪斎の記を作る、
539
後土御門
文正元年閏二月六日
1466
諏訪社上社、狩始、
541
後土御門
文正元年閏二月一四日
1466
諏訪社上社神使御頭諏訪信満等、精進始、
541
後土御門
文正元年閏二月一九日
1466
幕府の遣明船、肥前呼子浦に颶風に遇ふ、遣明正使清啓天与、等の乗船せる泉丸は損傷を免る、
542
後土御門
文正元年三月五日
1466
諏訪継満、諏訪社上社大祝の位に即く、尋で、位次の神事を行ふ、
543
後土御門
文正元年四月一日
1466
僧宗詢、山城醍醐寺普賢院に於て、理上抄目録を書写す、
545
後土御門
文正元年四月四日
1466
幕府、正玖瑤林、を伊那郡西岸寺住持となす、尋で、正玖、入院す、
546
後土御門
文正元年四月八日
1466
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、高井郡河田郷等に充つ、
548
後土御門
文正元年四月一〇日
1466
幕府、五山の僧徒をして、清啓天与、等の乗船せる遣明船の航行安全を祈らしむ、
549
後土御門
文正元年五月五日
1466
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、伊那郡飯嶋郷等に充つ、
550
後土御門
文正元年五月一二日
1466
諏訪貞郷、幕府祐筆を免ぜられ、信濃使節を命ぜらる、是日、貞郷、幕府に之を謝す、
550
後土御門
文正元年五月二五日
1466
遣明正使清啓天与、等、悪風の為め小豆島に留る、是日、その報京都に至る、
550
後土御門
文正元年
1466
僧真海、小県郡富士山の石仏を造立す、
551
後土御門
文正元年七月三〇日
1466
諏訪社上社、同社明年御射山祭頭役を、佐久郡平賀郷等に充つ、
551
後土御門
文正元年八月九日
1466
足利義政、山城東福寺海蔵院をして、同寺領水内郡太田庄等を安堵せしむ、
552
後土御門
文正元年
1466
僧尭深、諏訪郡栗林五日市場に於て、大塔物語を書写す、
552
後土御門
文正元年一一月一日
1466
木曽家豊、木曽興禅寺に梵鐘を寄進す、
553
後土御門
文正元年一一月二〇日
1466
幕府、斎藤豊基等を、東山山荘料美濃国材木見分使節となす、
554
後土御門
文正元年一一月二一日
1466
諏訪社上社神使等、精進始、 諏訪社上社物忌令
554
後土御門
文正元年一二月九日
1466
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねて御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
568
後土御門
文正元年一二月二〇日
1466
諏訪社上社神使御頭虎岩某、卒す、
569
後土御門
文正元年
1466
高井郡井上満貞、村上某と合戦し、尋で、卒す、
570
後土御門
応仁元年正月一日
1467
諏訪社上社、同社の神使御頭を定む、
570
後土御門
応仁元年正月八日
1467
禁中に、太元師法を修す、宗詢、その伴僧役を勤む、
571
後土御門
応仁元年二月五日
1467
諏訪社上社神使等、精進始、
573
後土御門
応仁元年三月五日
1467
諏訪社上社外県神使等、伊那廻湛のため発す、尋で、内県・大県神使等、諏訪廻湛のため発す、
573
後土御門
応仁元年三月二四日
1467
惟宗惟冬、信濃権守に任ぜらる、
574
後土御門
応仁元年
1467
信濃矢嶋氏等十二氏、出羽由利郡に移住す、
575
後土御門
応仁元年四月八日
1467
諏訪社上社、同社明年花会頭役を、小県郡大石村等に充つ、
577
後土御門
応仁元年四月一一日
1467
高井郡本誓寺八世性善、寂す、
578
後土御門
応仁元年五月五日
1467
諏訪社上社、同社明年五月会頭役を、高井郡高梨本郷等に充つ、
578
後土御門
応仁元年六月一一日
1467
小笠原氏の京都の邸火く、
579
後土御門
応仁元年七月一五日
1467
小笠原政貞、伊那郡伊賀良より筑摩郡府中に入り、小笠原宗清を攻む、
581
後土御門
応仁元年七月二七日
1467
是より先、小県郡定津院の徒宗穆、悦堂、同寺前住持宗英拈笑、の会下に於て、契悟す、是日、宗穆能登総持寺に至り、同寺に住持せる宗英に所解を呈して印可を蒙る、
582
後土御門
応仁元年七月三〇日
1467
諏訪社上社、同社明年御射山頭役を、伊那郡飯沼郷等に充つ、
582
後土御門
応仁元年一〇月一八日
1467
村上頼清、海野氏幸と小県郡海野に戦ひ、氏幸、敗死す、
583
後土御門
応仁元年一一月二二日
1467
諏訪社上社神使等、精進始、
585
後土御門
応仁元年一二月九日
1467
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
585
後土御門
応仁元年一二月一四日
1467
海野満幸、小県郡海野に戦ひ、敗死す、
586
後土御門
応仁元年一二月二一日
1467
足利義政、京都禅林寺若王子社忠雅をして、同社別当職並に同社領高井郡小菅庄・水内郡若槻庄等を安堵せしむ、
587
後土御門
応仁元年
1467
遣明正使清啓天与、等、明国杭州寧波府に著岸す、
587