長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十 (100頁~)
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後土御門
明応八年一二月九日
1499
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
100
後土御門
明応九年二月九日
1500
諏訪照月の子、頼種、諏訪社上社大祝の位に即く、
101
後土御門
明応九年四月一八日
1500
本願寺光兼、実如、聖徳太子画像の裏書を書し、之を高井郡本誓寺性善に授く、
102
後土御門
明応九年四月二八日
1500
佐久郡竜雲寺住持祥貞、天英、その徒如麟瑞翁、に仏祖正伝菩薩戒作法を伝授す、
103
後土御門
明応九年
1500
諏訪社下社造宮あり、河中嶋小嶋田郷等、同社春宮三之御柱造宮料を課せらる
103
後土御門
明応九年五月一七日
1500
建長寺西来院塔主英璵、玉隠、済淵の請に応じて、その師信濃の僧相摸長寿寺住持喜江の頂相に賛す、 信濃の僧益書記、英璵より道号及びその頌を授けられて、帰郷せんとす、
104
後土御門
明応九年六月二七日
1500
山城醍醐寺理性院宗典、伊那郡文永寺僧宗詢に理性院流聖教等の披見を許す、
107
後土御門
明応九年六月二九日
1500
南佐久郡中込町の宝篋印塔、成る、
108
後柏原
明応九年一一月一五日
1500
高梨政盛、夜交景国をして、高井郡下上条等の所領を安堵せしむ、
109
後柏原
明応九年一一月二八日
1500
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
110
後柏原
明応九年
1500
佐久郡竜雲寺住持祥貞、天英、同寺を如麟瑞翁、に譲り、下野成高寺に遷る、
111
後柏原
文亀元年二月一一日
1501
安曇郡穂高社、同社式年造宮にあたり、同郡諸郷の所役を注す、
113
後柏原
文亀元年
1501
伊那郡立石寺の僧天海、遠江引佐郡安楽寺より梵鐘を購ふ、
121
後柏原
文亀元年六月一三日
1501
是より先、足利義尹、義植、周防に逃れ、大内義興の援によりて上洛の機を計る、是日、義尹、小笠原貞忠に命じて、忠節を尽さしむ、
122
後柏原
文亀元年
1501
筑摩郡須々岐宮の馬頭観世音像の修理、成る、
124
後柏原
文亀元年閏六月二日
1501
伊勢宗瑞、早雲庵、甲斐攻略のため、諏訪社上社大祝諏訪頼満に同心を求めんとす、是日、宗瑞、之を千野某に報ず、
124
後柏原
文亀元年閏六月二一日
1501
尾張守護斯波義寛、遠江鎮定のため同寛元、同義雄等を出陣せしむ、是日、寛元、小笠原定基・子貞忠等に合力を求む、尋で、定基等之を諾し、府中小笠原貞朝、同国に出陣す、 藤原威邦、遠江狩野知満丸討伐のため、小笠原氏に合力を求む、 本間宗季、駿河守護今川氏親に属し、遠江蔵王城に於て信濃の兵と戦ひ、氏親之を褒す、
125
後柏原
文亀元年
1501
伊那郡藤宝寺僧賢宗、仁王像を造立し、毘沙門天・持国天の両像を修理す、
134
後柏原
文亀元年八月一二日
1501
小笠原長朝、卒す、
136
後柏原
文亀元年
1501
伊勢大神宮、豊受大神宮神領更級郡藤長御厨をして、毎年上分並に式年造替料等を懈怠なく勤めしむ、
140
後柏原
文亀元年一一月二九日
1501
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
141
後柏原
文亀元年
1501
木曽定勝寺住持慧珍、貴山、同寺々領及び常住什物等の目録を注す、
142
後柏原
文亀元年
1501
木曽白山権現の修造、成る、
145
後柏原
文亀二年二月二六日
1502
連歌師飯尾宗祇、宗長と共に越後より信濃路を経て、是日、上野草津に到る、
146
後柏原
文亀二年三月二一日
1502
伊那郡文永寺僧宗詢、山城東寺執事頭となる、
147
後柏原
文亀二年
1502
埴科郡桑井大明神社殿、成る、
147
後柏原
文亀二年六月一日
1502
原豊前守、伊那郡遠照寺の釈迦堂多宝塔を造立す、
148
後柏原
文亀二年六月五日
1502
水内郡長沼淨興寺九世巧観、寂す、
150
後柏原
文亀二年八月二八日
1502
鎌倉府執事上杉顕定、亡母妙皓禅尼の三回忌仏事を上野海竜寺に行ひ、相摸禅興寺明月院塔主英璵玉隠、をして陞座説法せしむ、
150
後柏原
文亀二年九月五日
1502
是より先、仁科盛直、安曇郡に大沢寺を開創し、祖奝絶方、を請じて開山となす、是日、祖奝、寂す、
153
後柏原
文亀二年九月二七日
1502
南佐久郡南相木村新開神社の鰐口、成る、 南佐久郡南相木村諏訪神社の鰐口銘、
159
後柏原
文亀二年一二月五日
1502
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
160
後柏原
文亀三年四月七日
1503
小県郡生嶋足嶋神社の鰐口、成る、
161
後柏原
文亀三年七月二一日
1503
三条西実隆、松田頼亮に、諏訪社法楽和歌の詠題を送る、
162
後柏原
文亀三年七月二九日
1503
是より先、三条西実隆、高梨政盛の為めに古今集を書写す、是日、政盛、実隆にその礼銭を贈る、
162
後柏原
文亀三年
1503
木曽御岳権現の祢宜彦五郎、姓闕く、王御岳登山清女行法巻を書す、
162
後柏原
文亀三年一一月一九日
1503
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
164
後柏原
永正元年正月一日
1504
建長寺住持英璵、玉隠、元旦に上堂説法す、
165
後柏原
永正元年四月一〇日
1504
伊那郡知久頼為、卒す、 知久宗旭、俗名闕く、宗休大休、より道号を受く、
167
後柏原
永正元年六月一八日
1504
望月昌頼・同昌純等、佐久郡釈尊寺を修理す、
172
後柏原
永正元年七月四日
1504
高梨政盛、三条西実隆に音信を通ず、
173
後柏原
永正元年
1504
後柏原天皇、信濃の僧紹允信叔、を山城妙心寺住持となす、
173
後柏原
永正元年一一月一七日
1504
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
177
後柏原
永正二年
1505
木曽御岳権現の滝神主、土公祭文を改書す、
178
後柏原
永正二年四月二三日
1505
高井郡興国寺の梵鐘、成る、
186
後柏原
永正二年四月二七日
1505
伊那郡蟠竜院住持瑞秀、雪岫、同郡関郷の三十三所巡礼観音像の安座点眼慶讃仏事を行ふ、
188
後柏原
永正二年
1505
木曽御岳権現の滝神主、御榊祭文を書す、
189
後柏原
永正二年七月八日
1505
信濃の僧武蔵岩槻淨安寺開山了聞、天誉、寂す、
194
後柏原
永正二年七月二三日
1505
高梨政盛、三条西実隆に礼物を贈る、
195
後柏原
永正二年九月一六日
1505
諏訪頼満の子、頼隆、諏訪社上社大祝の位に即く、 甲斐武田信昌、諏訪社上社神長守矢有実の、玉会及び守符を贈れるを謝す、
195
後柏原
永正二年
1505
伊那郡文永寺僧宗詢、雲州往来を同寺密乗院に書写す、
196
後柏原
永正二年
1505
諏訪湖上に、諏訪大明神の御渡なし、
198
後柏原
永正三年三月一〇日
1506
駿河守護今川氏親、小笠原定基に書を遺り、三河戸田憲光兄弟の敵に内通せるを報ず、
198