長野県立歴史館 信濃史料
「信濃史料」 巻十 (500頁~)
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後柏原
大永四年三月一五日
1524
戸隠山顕光寺僧栄快、彦山霊山寺大先達即伝より、入峯印証を受く、
503
後柏原
大永四年四月一三日
1524
越後守護代長尾為景・諏訪社上社に神鷹・神馬を奉納す、 長尾為景、守矢頼真に物を贈る、 道猷、女房衆の善光寺参詣の便に託して、物を長尾為景に贈る、
504
後柏原
大永四年六月二三日
1524
長野市小市称名寺の宝篋印塔、成る、
507
後柏原
大永四年七月一日
1524
木曽興禅寺中興開山良演、叔雅、寂す、
507
後柏原
大永四年八月一日
1524
信濃の僧前建長寺住持英璵、玉隠、寂す、
508
後柏原
大永四年九月六日
1524
是より先、下野能延寺、諏訪郡仏法寺の秘密道具を移し置かんことを請ふ、是日、仏法寺俊聡、その模器を新調して、之を能延寺に備へしむ、
514
後柏原
大永四年
1524
佐久郡新海三社明神の再建、成る、
515
後柏原
大永四年一〇月九日
1524
是より先、長尾為景、信濃の乱を鎮定し、高梨政頼をして、帰郷せしむ、是日、斯波政綿、書を為景に遺りて、その戦勝を賀し、併せて使者の越後通過に協力を請ふ、
516
後柏原
大永四年一二月一一日
1524
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
518
後柏原
大永五年三月二六日
1525
小県郡丸子町荻窪観音堂の厨子、成る、
519
後柏原
大永五年四月一日
1525
諏訪某、武田信虎を頼りて、甲斐府中に赴く、
519
後柏原
大永五年四月二五日
1525
安曇郡大沢寺住持祖綱、巨海、寂す、
520
後柏原
大永五年一一月二二日
1525
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
521
後奈良
大永六年五月一八日
1526
ゑもと左近将監、佐久郡小諸の修験者惣馬大夫檀那職を、佐久郡大井法華堂源春に譲る、
523
後奈良
大永六年六月一九日
1526
将軍足利義晴、甲斐武田信虎をして上洛せしめんとするに依り、是日、諏訪頼重並に上杉憲政等をして、信虎と和せしむ、
524
後奈良
大永六年
1526
佐久郡慈寿寺光世庵塔主宗慈、鰐口を同寺に寄進す、
525
後奈良
大永六年一二月四日
1526
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
525
後奈良
大永六年
1526
伊那郡蟠竜院住持瑞秀、雪岫、偈を作りて、その徒興春東渓、の典座を司るを賀す、
526
後奈良
大永七年四月二〇日
1527
海野棟綱、紀伊高野山蓮華定院を領内住民の宿坊と定む、
527
後奈良
大永七年六月三日
1527
是より先、佐久郡乱るるに依り、伴野貞慶、甲斐武田信虎に援を乞ふ、是日、信虎、出陣せんとす、尋で、貞慶、敵と和睦す、
528
後奈良
大永七年七月八日
1527
甲斐武田信虎、善光寺に詣づ、尋で、帰国す、
529
後奈良
大永七年一一月二八日
1527
佐久郡追分諏訪社の大般若経の修補、成る、
529
後奈良
大永七年一二月一八日
1527
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
537
後奈良
享禄元年正月一日
1528
諏訪社上社、神使御頭を定む、
539
後奈良
享禄元年八月三〇日
1528
甲斐武田信虎、諏訪郡に攻め入り、諏訪頼満と神戸・堺川に合戦して敗る、
540
後奈良
享禄元年九月一三日
1528
熊野三山検校山城聖護院道增、諸国の修験者等に役銭を課す、是日、道增、佐久郡大井法華堂源春をして、信濃の山伏等に、その進納を触れしむ、
541
後奈良
享禄元年九月一四日
1528
美濃大智寺住持瑞秀、雪岫、伊那郡竜岳寺の徒興春東渓、の請に応じて、その頂相に賛す、
543
後奈良
享禄元年閏九月二一日
1528
関春光、子の追善のため、梵鐘を鋳造して伊那郡瑞光院に寄進す、
543
後奈良
享禄元年一一月一九日
1528
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
545
後奈良
享禄元年一二月一四日
1528
伊那郡天沢寺・玉川寺開山同郡蟠竜院前住持瑞秀、雪岫、寂す、
545
後奈良
享禄二年正月一日
1529
諏訪社上社、神使御頭を定む、
556
後奈良
享禄二年八月一日
1529
福泉坊直栄、佐久郡福王寺の大黒天を造立す、
556
後奈良
享禄二年
1529
本願寺光兼、実如、水内郡長沼浄興寺に於て、円兼存如、筆の安心決定鈔を覧て、之に奥書を加ふ、
557
後奈良
享禄二年
1529
関春仲、伊那郡新野に瑞光院を開創し、舜玉光国、を請じて開山となす、
558
後奈良
享禄二年一一月二九日
1529
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
559
後奈良
享禄二年一二月二八日
1529
諏訪宮若丸、頼寛、諏訪社上社大祝の位に即く、 諏訪頼満、諏訪社上社神長の八朔の礼物を贈れるを謝す、
560
後奈良
享禄三年正月一日
1530
諏訪社上社、神使御頭を定む、
563
後奈良
享禄三年三月二三日
1530
諏訪社下社造宮あり、水内郡常磐郷、同社秋宮二之御柱造宮料を課せらる、
564
後奈良
享禄三年三月二七日
1530
僧宗春、東渓、興春、伊那郡長久寺を開創し、同寺の諷経規式を定む、
565
後奈良
享禄三年四月一八日
1530
諏訪社上社御柱引あり、是日、之を行ふ、同社大祝諏訪宮若丸頼寛、の兄同頼隆の卒去に依り、大祝一族、之に出仕せず、
567
後奈良
享禄三年六月五日
1530
後奈良天皇、信濃の僧某に禅師号を授く、
568
後奈良
享禄三年
1530
伴野貞慶、紀伊高野山蓮華定院を領内住民の宿坊と定む、
568
後奈良
享禄三年九月九日
1530
佐久郡津金寺憲存、紀伊高野山蓮華定院を同寺住僧等の宿坊と定む、
569
後奈良
享禄三年
1530
村上顕胤、紀伊高野山蓮華定院を領内住民の宿坊と定む、
570
後奈良
享禄三年一〇月二六日
1530
某、佐久郡原宮新海三社に、社領を寄進す、
571
後奈良
享禄三年一二月六日
1530
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
572
後奈良
享禄三年
1530
小県郡定津院住持玄岱、海秀、相摸最乗寺輪住服勤のため同寺に赴任す、
573
後奈良
享禄三年
1530
僧宗長、年室、小県郡嶺南山の某寺に庵居す、
573
後奈良
享禄四年正月一日
1531
諏訪社上社、神使御頭を定む、
574
後奈良
享禄四年正月二一日
1531
甲斐浦信本・栗原某等、武田信虎に叛し、諏訪頼満の援を得て、同国御岳に篭る、尋で、信本、信虎と戦ひて敗る、
574
後奈良
享禄四年二月一八日
1531
信濃の人坂西政満、紀伊高野山参詣の帰途、三条西実隆を訪ひ、和歌を贈らる、
575
後奈良
享禄四年四月一二日
1531
諏訪頼満、甲斐に入り、武田信虎の兵と、同国塩河に戦ひ、之を破る、
576
後奈良
享禄四年八月一日
1531
伊那郡瑞光院住持舜玉、光国、遠江大洞院に遷る、
576
後奈良
享禄四年
1531
小県郡上洗馬郷堀内松兵衛等、諏訪明神を同郷に勧請す、
577
後奈良
享禄四年一〇月一七日
1531
小県郡定津院住持玄岱、海秀、同寺開山宗英拈笑、の五十年忌を修す、
578
後奈良
享禄四年一一月一八日
1531
諏訪湖上に、諏訪大明神御渡あり、尋で、重ねての御渡あり、諏訪社上社、之を幕府に注進す、
579